特別公開(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《堺市立熊野小学校》 

http://www.sakai.ed.jp/yuya-e/

590-0946堺市堺区★熊野町東5丁1-49/072-233-3227 

1872堺県第八区分校として開校。櫛屋町東3丁(現・堺市堺区)に仮校舎を設置。 

泉州第六番小学校に改称。 

1875熊野小学に改称。 

1877★明治天皇臨幸、授業を天覧。 

1882熊野小学校に改称 

1887熊野尋常小学校に改称 

1941国民学校令により、堺市熊野国民学校と改称。 

1947学制改革により、堺市立熊野小学校と改称。 

http://www.city.sakai.lg.jp/sakai/kunitsuite/arekore.html

熊野をクマノと読むかユヤと読むか種々論議が分かれていますが、もとは「湯屋町」となっていました。それが、明治5年(1872)の町名改正の時に、「熊野町」となりました。字だけ変えたのか呼び名も改めたのか明らかではなく、両方使われています。昔は、湯屋が多く並んでいたところから湯屋町の地名になったと言われていますが、一説には、天神の境内において風呂を炊きだして一般の人々に施したところから、この名がついたとも言われています。 

http://toursakai.jp/igaishi/vol11.html

大小路がもともと堺の発祥の地で中心地であるが、この両側の町名が商業都市として発達したことをみごとに伝えている。南側が市之町、文字どおり市場街・ショッピングゾーンを表している。北側は、湯屋町すなわちヘルスセンター・遊楽街を意味している。明治維新の謹厳実直な役人が風俗街的なイメージを変えようと博識を披露して同音の★熊野(「謡曲」の題名にゆや)町と漢字に変えたようだが、一般的には読みがなじめず、くまの町との発音になってしまった。しかし、この通りにある小学校では今でもゆや(熊野)小学校と称している。

 

 

《堺市熊野小学校景観整備プロジェクト》 

設計:池上俊郎+アーバンガウス研究所/監理:アーバンガウス研究所+堺市都市局都市開発部再開発課 

★新建築1996年12月号 

「都市像復活プログラム堺市熊野小学校景観整備プロジェクト」 

http://www.city.sakai.lg.jp/shisei/toshi/toshikeikan/jushoichiran/5keikansho10.html

1998堺市熊野小学校景観整備事業「第5回堺市景観賞」優秀賞 

 

【池上俊郎】 

http://www.urbangauss.com/

1948大阪市北区堂島生まれ1974大阪大学工学部建築工学科卒業1976★安藤忠雄建築研究所1977級建築士1981池上俊郎建築事務所設立1986(株)アーバンガウス研究所に改組1993京都市立芸術大学助教授1999京都市立芸術大学教授2000博士課程教授1992~2002GMARKグッドデザイン賞審査委員・UNIT長1999ICSID国際工業デザイン団体協議会ROSTER of DESIGN EXPERT 2001---NPO法人エコデザインネットワーク設立副理事長2003JDP公益財団法人日本デザイン振興会DESIGN EXPERT2007NPO法人エコデザインネットワーク理事長。 

http://kg-sps.jp/blogs/ikegami/

関西学院大学総合政策学部都市政策学科 建築コース教授(2017年3月退職)。

 

 

《喜志邦三「春の唄」》2011歌碑建立記念式典 

http://www.sakai.ed.jp/weblog/index.php?id=sakai007&type=1&column_id=164745&category_id=801&date=20110423

大阪出身で、著名な作詞家であるもず唱平氏が、自身の師にあたる喜志邦三氏を顕彰する目的から、喜志邦三氏の出身地である堺に歌碑の建立を検討している申し出が堺市にありました。もず唱平氏の依頼内容としては、喜志邦三氏のゆかりの地に歌碑を建立したいとのことで、喜志邦三氏の生家跡地をはじめゆかりの地を調査した結果、喜志邦三氏が★熊野小学校の卒業生であることが判明しました。そこで、熊野小学校の東門横に喜志邦三氏の代表的な歌「春の唄」の歌碑が建立されることになりました。喜志邦三氏の命日にあたる5月2日に歌碑建立除幕式を1部で行い、2部では、本校体育館で、本校の児童が校歌と「春の唄」を合唱することになりました。

 

 

・・・これらの情報は、学校に通う子どもたちの「誇り」であり、もっともっと広く知られていいことだと思います。大小路筋と大道筋の交差点北側に「晴明辻」があります。阿倍晴明が信太村からやってきて、この辻を通った時に占い書きを埋めたそうで、ここで占いをすると必ず当たるという伝承があります。大道筋との交差点南側に、「紀州街道」の道標があります。★阪堺電車が通る通りが紀州街道です。大小路筋の南側堺警察署の前に「大小路」の起点の碑が建っています。「西高野街道」の起点という説もあります。歩道橋の下に「大小路橋親柱」があり、そこが起点という説もあります。

 

 

《参考》謡曲「熊野」 

『熊野』(ゆや)は、能を代表する曲の一つである。作者は、金春禅竹とも言われるが不明。禅竹の著書『歌舞髄脳記』に『遊屋』の記述がある。喜多流では『湯谷』。『平家物語』の巻十「海道下」(かいどうくだり)の場面から発展させたと考えられる。作中で「自分と同じ名前だ」として熊野権現、今熊野(いまぐまの)を挙げている。つまりは喜多流以外では主人公の名は「くまの」だと思われる。 

ドラマチックな展開を可能とする素材を扱いながら、対立的な描写を行わず、春の風景の中、主人公の心の動きをゆるやかな過程で追う。いかにも能らしい能として、古来「熊野松風に米の飯」(『熊野』と『松風』は、米飯と同じく何度観ても飽きず、噛めば噛むほど味が出る、の意)と賞賛されてきた。 

平宗盛の妾熊野が、老母からの手紙に接してその病を知り、暇をもらって見舞いに帰りたいと思うのであるが、宗盛は熊野を愛する余りに手放すことを欲せず、かえって熊野の気持ちを引き立てようと、花見に誘う。その花見の道中、病母を気遣う熊野の気持と、宗盛との間に演じられるやりとりが、一曲の筋をなしている。親子の情愛と男女の葛藤を描くという点で、本来ドラマ性を秘めた作品といえるが、曲はそうした部分を表に出さず、遊山の道中に焦点をあてて、たゆたうように、ゆったりと進行していく。このゆらめくようなリズムの中にこそ、この曲の命があるともいえる。

 

 

・・・堺にも「能楽会館」があるので、この機会に立ち寄ってみることにしました。