・・・カタカナ「イシバシオサム展」について、
・・・年老いた母は、毎日「デイサービス」を利用しています。当然、着替えや持ち物には名前を記入しておく必要があります。当初、漢字で標記していましたが、衣類には書きやすい「カタカナ」を用いるようになりました。ということで、今回の個展も母親と同じように「カタカナ」で標記することにしました。
・・・認知症の進行を少しでも食い止める?ために、母には「写経」をしてもらうようにしています。書いてくれた写経を私の作品にコラージュすることで、母も張り合いを感じてくれるのではと思っています。
《NEWS》2018.3.1毎日新聞より
ギャラリー「いろはに」の防空壕、記憶語り継ぐために/大阪
戦時中の家庭用防空壕(ごう)が堺市堺区甲斐町東1丁の「ギャラリーいろはに」に残されている。「大阪戦争モノ語り」(清風堂書店)の著者、森田敏彦さん(75)に「現存するものは非常に珍しい」と教えてもらって出かけた。
南海堺、堺東駅の中間辺りにある「堺山之口商店街」の一角。近くには与謝野晶子生家跡や千利休屋敷跡もある。おしゃれな画廊内はこの日、65歳でデビューしたという現代アートの★「イシバシオサム展」(7日まで)の最中で、にぎわっていた。「防空壕はどこに?」。経営者の北野庸子さん(67)は「今、作品に利用してもらっているんです」。のぞきこむと掘り下げられているのが分かる。ふたを上げてもらった。出入り口の大きさは幅が70センチ、長さが150センチ。内部は奥行きが4メートル、高さが160センチ。大人が立って詰めれば20人ぐらい入れるという。コンクリートでかっちり作られている。北野さんは「昭和19(1944)年、軍の命令で夫の祖父が造ったと聞いています。この辺りはみんな造ったのですが、土を掘ったタイプが多く、コンクリートで固めたのはうちを入れて2軒」と話す。86年に当時の堺市人材啓発局が出した戦災関係資料集によると、堺は45(昭和20)年3月13日から8月10日まで5回にわたって空襲を受け、計1876人が亡くなった。そのほとんどは、7月10日の第4次空襲で犠牲になっている。ギャラリーは当時、学生服を扱う洋服店。その日の空襲で、一帯の商店などとともに焼け落ちた。防空壕は「入っても蒸し焼きになるから」と使われなかった。空襲に備えた「防空法」施行は37年。灯火管制、消防、防毒、避難、救護のほか、防空のための監視、通信、警報について規定された。40年の「防空壕構築指導要領」で都市部の学校・企業・家庭にも防空壕設置が推奨された。41年には、改正防空法などによって、住民は空襲時の退去を禁じられた。のみならず、42年には防空壕には長時間とどまらず、消火活動するよう定められた。防空壕といっても、一般的には地面を掘って木材などで覆い、さらに土をかぶせたぐらいのものだった。森田さんは「大阪戦争モノ語り」で次のように指摘する。「貧弱な防空壕で命を守ることもできず、そのうえすみやかに退出して消火にあたることが求められては、空襲による死者がたくさん生まれるのは当たり前でしょう」ギャラリーの防空壕は、北野さんが結婚後の77年ごろ、洋服店のショーケースの陰で出入り口を見つけ、家族に断って開けてみた。土とほこりが落ち、木の階段はぼろぼろに腐っていた。夫の両親が亡くなった後は空き店舗になっていたが、台風で一部壊れたのをきっかけに改装。99年、ギャラリーを開設したが、防空壕は意図的に残した。北野さんは「積極的に平和運動をしてきたわけではない。でも、戦跡の保存活動をしている人が『目から消えるものは心からも消える』と話していたのが記憶にある」と話す。北野さんの父高橋新吾さん(故人)は現ミャンマーの野戦病院の軍医で部隊を率いた。インパール作戦では、その場を「死守せよ」と命令を受けたが、部下を連れて退却。英軍に追われ、マラリアに苦しめられた。直接は戦争を語らなかった父だが、戦後は遺族会を作り、家で会合を開いたので、北野さんも戦中の話は小耳に挟んだ。大学時代、ミャンマーを父や遺族と訪れたことも。防空壕は、小学生らが見学に来る。ギャラリーを訪れた年配の人は戦争を語り出す。北野さんは「過去のものにはなっていない」と感じている。
・・・「防空壕」をいかした作品は、来廊してくださった方々の協力により、日々進化しています。ぜひ皆さんもご参加ください。