他の区(9) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《「新今宮駅前」停留場》(旧:南霞町) 

阪堺電気軌道(本社:大阪市住吉区/社長:外濵道明)では、平成26年12月1日(月)に現「南霞町」停留場を「新今宮駅前」停留場に変更いたします。これは、現在の停留場名である南霞町の由来となった★「霞町(かすみちょう)」の地名が、昭和50年代に消滅したことや、JR(新今宮駅)や大阪市営地下鉄(動物園前駅)との乗換駅にも関わらず停留場名が違うことで、以前からご利用される方々などから分かりにくいとのご意見があるほか、沿線外並びに近年増加傾向にある訪日外国人のお客さまなどすべてのお客さまにより分かりやすくすることで、当社線をご利用いただき沿線に多数ある観光資源の魅力を楽しんで いただくことを目的に実施いたします。

 

 

《関谷町公園》 

556-0004大阪市浪速区日本橋西1-9 

設立時ここが★「関谷町(正確には西関谷町)」という町名だったことに由来しています。今は関谷町という町名は消滅しているので、唯一この公園が関谷町という名称を今に伝えています。1960年代前半までは隣の関谷グランドと合わせて「空き地」という扱いでした。戦前は長屋が密集する区画だったのですが、大阪大空襲で焼け野原になり、家を失った人たちが集まってバラック小屋を建てて暮らす場所になっていったそうです。1960年代には行政の指導で小屋は姿を消していき、1960年代中頃になって公園が整備され「関谷町公園」と命名されたそうです。 中学校の校庭もすべて公園区域で、開園面積は約8,800平米となっていますが、実際は敷地の2/3くらいが校庭として仕切られて占用されており、その中に入ることはできません。いちおう校庭と公園とを行き来できる門が設けられていますが、野球のバックネットがあったりしてこの門が開かれることはなさそうです。現状公園部分についても、繁華街に近くホームレスや不法投棄を始めとする公園管理上の問題が多いという土地柄からか、高いフェンスに囲まれて昼間だけ開園する全フェンス型の公園になっています。中に入れば芝生が美しく、シンボルツリーになっているクスノキもよく育った気持ちの良い公園です。付近は都心型の大規模マンションも多く、子どもの利用のための新しい遊具も設置されています。 

《NEWS》2014.5.20建設ニュースより 

大阪市は「日本橋中学校」を施設一体型小中一貫校として整備する。実施設計は東急設計コンサルタントが担当する。2014年度補正予算では実施設計費として5836万円を計上した。大阪市が施設一体型小中一貫校を整備するのは今回が4校目になる。大阪市浪速区にある恵美、日東、日本橋の3小学校を統合する。校舎は既存の日本橋中学校の校舎(RC造4階建て)を改修するほか、中学校の敷地南側にある★「関谷町公園(面積約8800平方㍍)」を敷地に使って新校舎を建設する。新校舎はRC造5階建て延べ約5000平方㍍を見込む。クラス数は1学年当たり3クラスとし、9学年の計27クラスとする。所在地は大阪市浪速区日本橋西1。14年度中に実施設計を終え、15、16年度に工事し、17年4月の開校を目指している。恵美、日東、日本橋の3小学校は16年度末で閉校する予定だ。大阪市の施設一体型小中一貫校は12年度にやたなか小中一貫校(大阪市東住吉区)、14年度にむくのき学園(大阪市東淀川区)が開校、15年度には今宮中学校(大阪市西成区)が開校する。 

★大阪市報道発表資料「関谷町公園」を廃止する。 

http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/cmsfiles/contents/0000329/329610/211_02_keikaku_riyu_Sankou.pdf

 

 

《「難波御蔵・難波新川跡」の碑》 

556-0011大阪市浪速区難波中2-10 

http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000880.html

江戸時代に幕府直轄の天王寺御蔵と難波御蔵の二つが当区にありました。ことに難波御蔵は享保17年(1732)飢饉に際して設けられ、幕府直轄の米蔵が置かれたところでした。東西126m南北324mの敷地に米蔵八棟を有し、災害時の救援米貯蔵の役割を担っていました。翌、享保18年(1733)道頓堀の湊町付近から難波御蔵への水運をよくするため堀川を掘ったのが難波新川です。明治11年(1878年)いたち川と連絡しましたが、昭和33年(1958 年)には埋め立てられ姿を消しました。

 

 

《「難波御蔵・難波新川跡」の碑》 

556-0011大阪市浪速区難波中2-10 

http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000880.html

江戸時代に幕府直轄の天王寺御蔵と難波御蔵の二つが当区にありました。ことに難波御蔵は享保17年(1732)飢饉に際して設けられ、幕府直轄の米蔵が置かれたところでした。東西126m南北324mの敷地に米蔵八棟を有し、災害時の救援米貯蔵の役割を担っていました。翌、享保18年(1733)道頓堀の湊町付近から難波御蔵への水運をよくするため堀川を掘ったのが難波新川です。明治11年(1878年)いたち川と連絡しましたが、昭和33年(1958 年)には埋め立てられ姿を消しました。

 

 

★「鼬(いたち)川くり船発掘の地」の碑 

556-0011大阪市浪速区難波中3-10 

http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000893.html

明治11年(1878)いたち川と難波新川の貫通工事中に全長12m程のくり船が発掘されました。くり船とは丸木船のことで発掘されたのは複材くり船であり、前後2本のくすのきで造られ、継ぎ目の部分は釘を使わず巧みな仕組みになっていました。★「船出町」の旧町名はこれに由来し、明治33年(1900)から昭和55年(1980)まで使われていました。 

《難波中公園》「くり船」モニュメント 

556-0011大阪市浪速区難波中3丁目 

http://naniwa-system.asia/doboku/nannbakoen/index.htm

明治11年に6世紀頃の二本のくすのきを木組みしてつないだ全長約12メートルの木造船(くり船)ですが、残念ながら戦災で失われたということです。

 

 

《NEWS》2016.12.15毎日新聞より 

勘助、信夫…偉人多く、銅像や碑で功績しのび 

四天王寺を建てる木材を運ぶため、イタチの大活躍で開削された鼬(いたち)川。今のなんばパークスの南で、旧難波入堀川という運河と結ばれたのが1879(明治12)年のこと。それまで用水路や排水に使われてきた鼬川の流れを良くして汚濁を除くのと、水運の便を良くするのが目的だった。だが、その後も水流の停滞で汚れがひどく、1940(昭和15)年ごろに埋め立てられた。イタチだけに、臭かったのだ。大阪案内人の西俣稔さんに先導されて、やって来たのは浪速区敷津西1の鴎町公園だ。「80(昭和55)年まで、このあたりは★「鴎町」。昔は海縁だったから、カモメが飛んでたんでしょう」。公園の前の東西の道が、鼬川跡だという。「ここに勘助橋が架かってましてん」と西俣さんが取り出した63年の地図には、鴎町の西隣に★「勘助町」とある。勘助とは木津勘助。公園から南東200メートル足らずの所にある大国主神社に、地元の義人の銅像が建つ。義人というのは、1641年の飢饉の時に、幕府の米蔵を破って民を救ったと伝わるからだ。このほかに今の大正区に勘助島という土地を開いたり、木津川をしゅんせつしたり。木津村に寄進した土地は、売却した金で小学校が建った。勘助の功績は数知れない。地元の大恩人の名を冠した橋は消えたが、公園に石柱が1基建つ。「勘助橋跡」と刻まれた碑には、「橋は無くとも勘助橋は残りますぞへいつまでも」という、なんとも粋な文句が残されている。建立したのは「木津勘助翁彰徳会」。地元の有志が、勘助の名を後世に残すべし、と建てたのだろう。この公園にはもう一つ、地元生まれの偉人の碑が建つ。★「折口信夫生誕の地」。1887(明治20)年、鴎町で生まれた歌人にして国文学者。木津幼稚園に通うころには百人一首を全部暗記したほどの神童だった。天王寺中学から国学院大学に進み、卒業後は今宮中学教諭を経て母校・国学院大学の教授になる。歌を詠み、琉球など各地を訪ねて民俗学の業績も積んだ。生誕地の碑の隣には文学碑があり、十日戎の「ほい駕籠」を詠んだ歌と追想が記されている。さらに鼬川をたどって走る。が、川の跡がそのまま道路になっているわけではなく、途切れている所もあれば、川もまっすぐではなく、途中でほぼ直角に折れている所もあって、一筋縄ではいかない。それでもようよう、大阪環状線芦原橋のすぐ北、新なにわ筋とあみだ池筋が合流する芦原橋駅北交差点に出た。「あみだ池筋に芦原橋が架かってたんです」と西俣さん。鼬川は、環状線の高架下をまっすぐ西へ続いていた。西俣さんが取り出した1937(昭和12)年の地図には、鼬川と芦原橋が載っている。市電の敷設に伴って15年に架けられ、40年に埋め立てで撤去された。西俣さんは環状線の高架の西側をうろうろする。「あったあった」と指したのは「鼬川橋りょう」と記されたプレートだ。なるほど、環状線の高架橋に、鼬川の名が残っている。高架下は自転車置き場になっていて、そこから道路を見ながら「あのあたりに芦原橋が架かってた」と西俣さんが指さす。ほかに痕跡はない、と思いきや、西俣さんが「親柱を見つけた」と南へ500メートル少々、自転車を走らせる。浪速神社境内の片隅に「あしはらはし」と刻まれた親柱が一つ、立っている。西俣さんがバーで隣り合ったおじさんに教えてもらったそうだ。わずか四半世紀しか存在しなかった橋だが、駅名に残る名前の確かな根拠がここにあった。 

 

《参考》「歴史的町名」 

歴史的遺産として保存するために、江戸時代末期の歴史的集落における町名を調査し保存した町名のこと。調査の成果は歴史的町名として石柱に刻まれ、該当する地域内に石碑が立てられている。古くから使われていた由緒ある名称を、次の世代に残す為に始められた取り組み。これらの歴史的町名はもとは江戸時代末期の物だったが、第二次世界大戦後の区画整理などで町名の変更が相次いだ。しかし町名が変更された後も、これらの町名は商店の名前などで使われ続け、人々の間で根強く浸透し続けた。これらの事もあり、「古くからの町名を保存してはもらえないだろうか」という意見が相次ぎ、歴史的町名を保存する作業が始まった。江戸時代に城下町・宿場町だった石川県金沢市、神奈川県小田原市がこの取り組みの代表的な市だが、長野県上田市や宮城県仙台市、東京都などでも、この取り組みが検討されている。 

 

・・・これにて「旧町名継承碑」は終了しますが、新たな発見は、それぞれのテーマの中で紹介していきます。 「町名に歴史あり」、ご愛読ありがとうございました。