・・・道修町、今回も「小西家」を訪問することが叶わなかった。
《旧小西家住宅(小西儀助商店)》
541-0045 大阪市中央区道修町1-6-9/
http://www.osaka-info.jp/jp/facilities/cat11/5302.html
薬問屋街の道修町に残る旧小西家住宅は、近代大阪の町家を集大成した和風建築(国の重要文化財)。小西家は、初代儀助(ぎすけ)が安政3年(1856)、京都から大阪道修町に出て薬種業・小西儀助商店(現・コニシ株式会社)を創業したことに始まる商家。現在の建物は明治36年(1903)から3年かけてつくられたもの。主屋裏には奥庭を挟んで衣装蔵および二階蔵がある。衣装蔵は明治45年(1912)の上棟で三階建の土蔵造。建築材も良材を使い、シンプルながらも各部屋や茶室などには凝った意匠や工夫の跡が見られる。居住部の台所の土間には、家族、従業員ら約50人の食事を賄った大きなかまどがあるとか。新社屋へ移転する前は、座敷に絨毯を敷き、机の上にはコンピューターが並ぶという事務所風景が見られたという。
現在も関連会社が事務所として使っている(一般公開していない)。
http://www.bond.co.jp/history/index.html
・・・楽しみは、後(ア~ト)にとっておけ!と言います。先般、タケダ「京都薬用植物園」を訪問させていただきまましたので、今日は「道修町」へ。まずは「神農さん」にお参りしてから、
《少彦名神社》登録年月日:20001204
541-0045大阪市中央区道修町2-1-8/06-6231-6958
★「くすりの道修町資料館」少彦名神社社務所ビル3階
http://www.sinnosan.jp/dosyoumathi-index.html
《武田薬品》
540-8645大阪市中央区道修町4-1-1/06-6204-2111
1781年、32歳の初代★近江屋長兵衞は、幕府免許のもと、日本の薬種取引の中心地であった大阪・道修町で和漢薬の商売を始めた。薬を問屋から買い付け、小分けして地方の薬商や医師に販売する小さな薬種仲買商店であった。これが、現在の武田薬品の始まりとなる。
《京都薬用植物園》
606-8134 京都市左京区一乗寺竹ノ内町11番地/075-781-6111
https://www.takeda.co.jp/kyoto/
1933『京都武田薬草園』として創設され、薬用植物の基礎研究を開始しました。1945終戦後すぐに、『京都試験農園』と改名し、天然物由来の新しい医薬品の創出や薬用植物の品種改良の研究をスタートしました。1994研究部門の移転に伴い、名称を『京都薬用植物園』とし、薬用植物の収集・保存・栽培を中心に活動する施設となりました。2010年10月事務棟と研修棟を新しく建築し、薬用植物の保全と教育支援ができる施設として、再スタートすることになりました。
《杏雨書屋》
541-0045大阪市中央区道修町2-3-6武田科学振興財団1階 特別展示室
http://www.takeda-sci.or.jp/business/kyou.html
五代★武田長兵衞氏(武田和敬翁)は、1923年9月、関東大震災により東京で貴重な典籍が灰燼に帰したことを大いに痛嘆し、日本・中国の本草医書の散逸を防ぐことが、将来、社会・学界のために極めて有意義であると考え、早川佐七氏蔵書、藤浪剛一氏蔵書などを、機会に応じ私財をもって購入し、後に「杏雨書屋」と呼ばれる文庫を形成しました。ちなみに杏雨とは杏林(医学)を潤す雨の意です。この杏雨書屋は六代武田長兵衞氏に引き継がれ、歳月とともにその内容も増大しましたが、1977年当財団へ寄付を受けたので、1978年4月28日「杏雨書屋」の名称を継承し、本草医書を中心とする図書資料館として開館するに至りました。本館では資料の永久保存を図るとともに、研究者の利用に供し、春秋年2回の特別展示会及び常設展の開催、研究講演会の開催、所蔵図書関係の出版等の事業活動を行っています。
https://ikenchiku.jp/building/194/
《田辺三菱製薬史料館》
541-8505大阪市中央区道修町3-2-10田辺三菱製薬本社2F/06-6205-5100
https://www.mtpc-shiryokan.jp/
https://ikenchiku.jp/building/190/
第28回日経ニューオフィス賞近畿ニューオフィス推進賞を受賞した『田辺三菱製薬本社ビル』。2階の史料館を休日特別開館します。今回のイケフェスでは、明治期の店先の再現のほか、新たに当時の屋敷の模型を披露します。
・・・「道修町」から「伏見町」へ。
《芝川ビル》設計:渋谷五郎(基本計画・構造設計)本間乙彦(意匠設計)
541-0044大阪市中央区伏見町3-3-3/06-6681-6616モダンテラス
竣工当時、まだ和風の木造建築が多く、和風建築が重宝がられていた時代のなか、南米マヤ・インカの装飾を纏った鉄筋コンクリートづくりの「芝川ビル」は誕生した。洋館を建てる前、屋根は木で壁は胴を貼っただけのものであった為、又四郎は防火上の危機感から耐震・耐火性に優れている鉄筋コンクリートへビルを建て替えた。竣工当時は自家用として使用する予定であったが余裕があった為に、教育に関心を持っていた又四郎の意向によって、花嫁学校「芝蘭社家政学園」として使用された。この学園は1929年~閉校の1943年迄、関西の名門女学校を卒業したお嬢様、いわゆる"いとさん"3000名程が卒業。女子短大のはしりとも言われる。現在は★屋上テラスで不定期にイベントが開催され、また味のうるさい大阪人を黙らせる各飲食ショップなどが入居。新たな可能性にチャレンジしているビルとして、熱い注目を浴びている。
・・・「伏見町」から「平野町」へ。
《生駒ビル》
541-0046大阪市中央区平野町2-2-12/
https://ikenchiku.jp/building/179/
1920~30年代に流行したアール・デコ。この全ての特徴を堪能できる『生駒ビルヂング』。開業当時のままの内容の美しさや通常非公開の屋上での時計塔の迫力を体感できる数少ないチャンス。
・・・「芝川ビル」屋上も素敵ですが、ここの屋上には「時計塔」があるので感動です。
・・・「時計塔」の裏側に「針」がついていないことを発見、一人喜んでいました。