・・・中央区また1基発見(計47)しました。「長堀橋」碑に眼をうばわれていて、その近くにある「旧町名継承碑」に気が付かなかったなんて、
《末吉橋》
江戸時代初期に朱印船貿易で活躍した豪商「末吉孫左衛門」が架けたと伝えられている。その後何回か架け替えられているが明治時代に入っても木橋のままだった。1910年に大阪市電が末吉橋西詰から玉造まで延長されたために鋼プレートガーダー橋に架け替えられた。現在の橋は第一次都市計画事業に伴い1927年に完成した長さ41.5mの鉄筋コンクリートアーチ橋である。完成当時の幅は27.3mであったが、1971年に拡幅され33.5mとなっている。橋の真上には阪神高速1号環状線が架けられている。橋の東側にある交差点は、かつては「末吉橋」交差点であり、バスやかつての市電の停留所名も「末吉橋」であった。しかしながら、末吉橋交差点の地下に大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線松屋町駅が開業した際に、交差点名とバス停留所名は「松屋町」に変更になった。長堀川に沿った大阪市電東西線は、上流から末吉橋、板屋橋、長堀橋、三休橋、心斎橋、佐野屋橋、四ツ橋、宇和島橋、問屋橋、白髪橋、鰹座橋、玉造橋と「橋」のつく停留所が12も連なっていた時期がある。長堀川が埋め立てられる前は、長堀通は★末吉橋通と呼ばれていた。
《参考》「南船場」
本来の南船場は、船場のうち本町通以南(本町を含む)をさす。江戸時代の大坂三郷では南組に属した。明治に入り三郷から四大組に改編された際、当初船場は全て東大組に属したが、1870年(明治3年)に順慶町通以南(初瀬町・浄国寺町・順慶町5~1丁目を含む)の所属が南大組に変更された。以降南区時代を通じて境界変更はなく、加えて、1982年(昭和57年)に南区が「南船場」の住居表示を実施したこともあって、近現代では順慶町通以南をさす場合が多い。
順慶町通以南の南船場では、1872年(明治5年)に以下の町名に改編された。
順慶町通4~1丁目 ← 初瀬町・浄国寺町・順慶町5~1丁目
安堂寺橋通4~1丁目 ← 北勘四郎町・安堂寺町5~1丁目[1]
塩町通4~1丁目 ← 南勘四郎町・車町・塩町4~1丁目
★末吉橋通4~1丁目 ← 長堀平右衛門町(西横堀川以東かつ長堀川以北)・長堀10丁目(長堀川以北)・長堀心斎町(同左)・長堀次郎兵衛町(同左)・長堀橋本町
横堀7丁目 ← 五幸町
順慶町通は「筒井順慶」の屋敷があったことに由来し、江戸時代には新町遊郭へ至る新町橋が架けられ、夜市で賑わっていた。塩町通には砂糖問屋が多く、1925年(大正14年)には大阪砂糖取引所が設置された。1982年(昭和57年)に南船場の町名に改称されたのちも、各通りの名称として使用されており、「末吉橋通」は現在は埋立てられた長堀川跡まで拡幅されて★「長堀通」となっている。
・・・「他の区」については、少ししか発見できていませんので、まとめて紹介していきます。
《旭区「江野町」》
http://www.city.osaka.lg.jp/asahi/page/0000000379.html
町名「大宮」は、昭和初期まで町域内の旧南島町に所在し、南島・森小路・今市・千林・貝脇★江野・中宮・生江・友渕・内代の各町を氏地とした「大宮八幡宮」の社名に由来する。
・・・「常翔学園・大阪工業大学」を訪問する際、阪神高速12号守口線の高架下で発見しました。
《NEWS》2014.6.14大阪日日新聞より
常翔学園(旭区大宮4)はこのほど、学園の創設期から将来の展望までを資料や映像で学内外に伝える施設★「常翔歴史館」を同区内で開設した。学園の歩みを学ぶ授業で活用し、生徒や学生の誇りを育んでいく方針だ。歴史館は4階建て鉄筋造の建物のうち1、2階部分で施設面積は約400平方m。数万点の資料を保管し、1階の常設展示室(約160平方m)では学園の歴史を紹介する九つのエリアで約150点を展示する。展示エリアでは1922年の創設後、49年に大阪工業大学誕生を伝える校内新聞や戦前の学舎の一つを復元した模型など多彩な資料を展示。計1時間程度の映像資料を用意したほか、館内の混み具合に応じて音量を自動調節する機能など設備面にもこだわったという。学園が設置する3大学2高校2中学では、自分の学校について理解を深める「自校教育」を2012年度から実施。歴史館を活用してさらなる理解を促す方針だ。開館時間は月~金曜(祝日、学園休業日を除く)の午前11時~午後5時。入館無料。
《港区「新池田町1~2」》
大阪市港区三先2-3
http://www.city.osaka.lg.jp/minato/page/0000193176.html
「三先公園」は、市立三先小学校前の公園です。
《参考》「桂あさ吉夜話」より
http://www.city.osaka.lg.jp/minato/page/0000161153.html
どうもこんにちは、桂あさ吉です。今回のテーマは★「三先」です。港区は江戸時代の中期から後期にかけて新田開発され、市岡新田をはじめ、ほとんど田んぼに覆われていました。そして、市岡新田の農業用水は尻無川から引いていたそうです。その農業用水を取り入れるための樋が三つ並んでる所があり、三ッ樋町(みつひちょう)と名付けられました。現在の福崎1丁目あたりです。その三ッ樋 町の先にある地域が三先、今回のテーマの三先が登場するわけです。
息子 -お父ちゃん、今年は大豊作やなあ。 父 -そうやなあ、大きな水害もなかったし、 今年はええ米がとれた。 息子 -やっぱり尻無川からあの三つの樋で水 を引いてるおかげかな。 父 -うん。あの三つの樋は大事な仕事をし てるなあ。そやさかい地名にも三ッ樋町 とついてるんや。 息子 -そうかあ。 父 -その先にある所は、三ッ樋町の先やか ら三先と言うんや。 息子 -へえー。お父ちゃん、よう知ってるなあ。 よーし、みっちゃんに言うて自慢したろ う。 息子 -おーい、みっちゃん、三先はなんで三先 って言うか知ってる? みっちゃん-いいや、知らんで。 息子 -ほな教えたろか! みっちゃん-教えていらんよ。 息子 -いいや、教える。三先は三ッ樋町のな あ…。 みっちゃん-先にあるから三先か? 息子 -君、先言うたらあかんわ。 きみさき言うたらあかんわ。おあとがよろしいようで。
《港区「天保町」》
安治川南の所属は江戸時代には大坂天満組、1869年(明治2)から大阪北大組となり、以降は北区だったが、1925年(大正14)から港区となった。1871年(明治4)には天保山付近に西成郡★天保町が成立。1889年(明治22)の町村制施行においては天保町は単独施行、10新田は現在の大正区・西成区域に含まれている1町13新田と合併して西成郡川南村となったが、役場は天保町・川南村合同のもので、市岡新田に置かれた。
★「天保山渡船場」
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000011249.html
《此花区「西野下之町」》
(西九条振興会館)554-0012大阪市此花区西九条6-1-18/06-6463-8300
《参考》「大阪市立こども文化センター」此花区西九条6-1-20
https://www.creo-osaka.or.jp/west/index.html
大阪市では、市政改革プランに基づいて検討を進めた結果、「クレオ大阪西・ホール」は、平成28年4月「こども文化センター・ホール」★(大阪市西区北堀江4-2-9から移転)に変わりました。「大阪市立こども文化センター」は、こども劇場、こどもフェスティバルの開催など各種の文化活動を通じて、次代をになう健全なこどもを育成することを目的としています。また、ホールなどを児童文化の振興を目的とする催しなどに、ご利用いただけます。
★旧大阪市立こども文化センター/大阪市西区北堀江4-2-9
ホールは434席、大阪市こども文化フェスティバル(2010年8月8日9日に開催)2009年開催時のビデオ視聴舞台鑑賞と発表の場 児童文化会館が前身(市民の文化活動募金からの寄付により昭和30年に開設)当こども文化センターは昭和54年に後継施設として開設し今日にいたる。こどもたちの夢を育んで30年、人形劇活動グループ、紙芝居活動グループなど市民ボランティア活動の拠点。サークル活動の発展。みる鑑賞事業(こども劇場・芸術劇場)出てみる発表事業(文化・演劇フェスティバル)やってみる創造事業(ミュージカル、人形劇、ダンス、ヒップホップ)人材養成/交流/協働事業 ボランティア・指導者養成・観賞事業(こども広場 春のこども文化まつり)大阪市こども文化協会、大阪市音楽団等。指定管理者以降、利用者は伸びている。しかしながら、年8800万円を指定管理代行料として市から支出し、収入は1300万円。施設利用率48%。スタッフボランティア登録14人。常時7名程。人形劇9グループ、紙芝居1グループなどがある。
★「堀江幼稚園」は平成31年3月末に廃止され、新たに「こども文化センター」跡地にて民営認定こども園が開所する事となりました(開所時期は同じ平成31年4月?)。
http://www.city.osaka.lg.jp/kodomo/page/0000204058.html
《参考1》「大林組80年史」より
https://www.obayashi.co.jp/chronicle/80yrs/t1c1s3.html
「大林芳五郎伝」は、彼が明治二十一年(一八八八)に砂崎家を去り、同二十五年(一八九二)創業にいたる四年間を「雌伏の時期」としている。「ただ二、三親近より依頼された小請負または下請負業等に甘んじ」とのべ、また明治二十二年(一八八九)には、水沢新太郎氏らとともに、和歌山県紀ノ川上流に石綿鉱視察にいったことも書いている。この間の由五郎の行動については明らかでないが、独立自営を志しながらも、この恐慌に際会して、ときを待たざるを得なかったものと想像される。しかしこの不況は、間もなく銀の国際価格下落によって救われた。実質的に銀本位国であった日本は、これで輸入が抑制され、輸出は増大して景気は回復した。国内市場の狭隘を思い知らされた紡績業は、これを機として販路を大陸にもとめ、海ひとつへだてた朝鮮半島に進出した。またここは雑貨にとっても絶好の市場であり、そのためにこれら産業の基地である大阪の発展は目ざましかった。紡績包装用などで需要の増した製紙業も盛んになり、近江出身の豪商阿部市郎兵衛、その弟市太郎、分家彦太郎氏ら阿部一族は阿部製紙所を創立した。待機四年の大林由五郎が、ついに志を得たのはそのときであった。明治二十五年(一八九二)一月十八日、彼はこの工場建設工事の入札に参加して、落札することに成功した。大阪府西成郡川北村西野新田(大阪市此花区★西野下之町)の工場敷地整地と、煉瓦造の工場および石造倉庫十棟の建設工事である。請負金額は三万六〇〇〇円で、当時の米価石当たり約七円から推して、現在の一億数千万円に相当する。彼はこの日から七日後の、一月二十五日を創業の日と定めた。ときに年二十八歳、店舗は西区靱南通四丁目六二番地(現・西区靱本町三丁目九一番地)で、住居を兼ねていた。(以下略)
《参考2》「市民病院の移り変わり」文:木村正樹より
設置場所が南に偏しているので、北部地区にも市民病院を開設することとなり、大阪市此花区★西野下之町に昭和11年着工 、昭和15年8月に現在の大阪市立北市民病院が開設された。
・・・見学させていただいていると、主題派メンバーの作品が展示されていて、とても嬉しくなりました。今となっては見学できませんが、「旧こども文化センター」にも、興味深い緞帳や展示物がありました。