国宝展(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《NEWS》2017.9.19日本経済新聞より 

雪舟の水墨画を発見80年ぶり★山口県立美術館/代表作への道筋示す 

室町時代の水墨画家、雪舟が描き、所在不明になっていた水墨画が84年ぶりに見つかったと、山口県立美術館が19日、東京都内で発表した。同館は10月31日から開く「雪舟発見!展」で公開する。専門家は、雪舟の代表作への道筋を示す重要な作品と位置付けている。報道陣に公開された雪舟の水墨画「倣夏珪山水図」(19日、東京都港区)見つかったのは、軸装された約30センチ四方のうちわ形の作品で、藍や緑などで彩色を施した「倣夏珪山水図」。水辺に岩や木々が、奥には、なだらかな山脈が描かれている。同美術館によると、雪舟が中国の名画家に倣って描いた「倣古図シリーズ」のうちの1点で、南宋(12~13世紀)の著名な画家夏珪の様式を模した。学習院大の島尾新教授は「雪舟の代表作で同じく夏珪風に描かれ、国宝に指定されている『秋冬山水図』や『四季山水図(山水長巻)』への流れを知ることができる作品」と話している。美術館などによると、この作品は1933年、西日本鉄道の前身、九州電気軌道が売り立て(競売)に出した際の目録に掲載された後、行方が分からなくなっていた。最近になり、東京の企画会社から同館に情報がもたらされ鑑識を実施。明治学院大の山下裕二教授と島尾教授が、雪舟の真筆と確認した。倣古図シリーズの作品6点を京都国立博物館や岡山県立美術館が収蔵しており、いずれも重要文化財に指定されている。 

 

 

《東の庭》 

http://www.kyohaku.go.jp/jp/tenji/yagai/higashi/

博物館の構内、東側の盛り上がった丘の一角には、朝鮮半島の石造遺品をあしらった庭園を設けています。展示を鑑賞した後の散策をお楽しみください。 

《茶室「堪庵(たんあん)」》 

http://www.kyohaku.go.jp/jp/about/fac/teahouse.html

この茶室は昭和33年(1958)に上田堪一郎氏より当館に寄贈された、江戸時代初期京都における公家文化の伝統を受け継いだ数寄屋造りの建物です。母屋には八畳の書院座敷を中心として正面に広縁、左脇に玄関、裏に水屋があり、庭に面して自然と一体をなす空間は、軽快な屋根の取り合わせや黒木の落ち着いた色調とともに、桂離宮(1620年頃)から学んだものと思われます。母屋右側にある小間が、奥の土間から上がる三畳の茶室「堪庵」であり、金森宗和(1584~1656)好みの大徳寺真珠庵「庭玉軒」を写したとされます。間取りは本勝手台目切(出炉)、下座床は框を横たえた上段の構造となっています。昭和41年(1966)に明治古都館南側から現在の位置に移築した際に、藁葺きと板葺きであった屋根を銅板葺きにあらため、あわせて庭と水屋後方の付属屋を整えて、茶会等の利用に一般開放しています。 

 

 

・・・庭を散策しながら、「智積院」に行ってみようと思い立ちました。 

 

 

《智積院》 

605 - 0951京都府京都市東山区東大路通り七条下る東瓦町964番地/075-541-5361 

http://www.chisan.or.jp/

建立:1601(慶長6)年、真言宗智山派総本山。智積院は、もともと紀州根来山(現在の和歌山県岩出市)大伝法院(根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺「祥雲寺」の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。 

 

 

「祥雲寺」は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている★長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。近代に入って1947年にも火災があり、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失した。この時焼けた講堂は1995年に再建された。講堂再建に先だって、1992年に発掘調査が実施されたが、その結果、祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことがあらためて裏付けられた。 

 

 

【長谷川等伯】(1539~1610) 

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。幼名は又四郎、のち帯刀。初期は信春と号した。狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人である。能登国・七尾の生まれ。20代の頃から七尾で日蓮宗関係の仏画や肖像画を描いていたが、元亀2年(1571年)頃に上洛して狩野派など諸派の画風を学び、牧谿、★雪舟らの水墨画に影響を受けた。千利休や豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派も狩野派と対抗する存在となった。金碧障壁画と水墨画の両方で独自の画風を確立し、代表作★『松林図屏風』(東京国立博物館蔵、国宝)は日本水墨画の最高傑作として名高い。晩年には自らを★「雪舟五代」と称している。慶長15年(1610年)に江戸で没した。代表作は他に★『祥雲寺(現智積院)障壁画』(国宝)、『竹林猿猴図屏風』(相国寺蔵)など。画論に日通が筆録した『等伯画説』がある。長谷川久蔵ら4人の息子も長谷川派の絵師となった。現在確認される長谷川等伯の作品は80点余りで、その多くが重要文化財に、一部は国宝に指定されている。慶長4年(1599年)本法寺寄進の『涅槃図』以降、「自雪舟五代」を落款に冠しており、自身を雪舟から5代目にあたると標榜した。雪舟-等春-法淳(養祖父)-道浄(養父)-等伯と、当時評価が上がりつつあった雪舟の名を全面に押し出しつつ、間に祖父と父の名を加え、自らの画系と家系の伝統と正統性を宣言する。これが功を奏し、法華宗以外の大寺院からも次々と制作を依頼され、その業績により慶長9年(1604年)に法橋に叙せられ、その礼に屏風一双などを宮中へ献上した。この年の暮れ、本法寺天井画制作中に高所から転落し、利き腕である右手の自由を失ったと言われるが、その後の作が残っていることからある程度は治ったものと考えられる。慶長10年(1605年)には法眼に叙せられ、この年に本法寺客殿や仁王門の建立施主となるなど多くのものを寄進、等伯は本法寺の大檀越となり、単なる町絵師ではなく、町衆として京都における有力者となった。 

 

・・・国宝「松林図屏風」は、10/31~11/12の第Ⅲ期の展示、ぜひ観てみたい作品です。