《関西セミナーハウス(修学院きらら山荘)》
606-8134京都市左京区一乗寺竹ノ内町23/075-711-2115
http://www.kansai-seminarhouse.com/
モダニズム建築様式の本館、100年の歴史を刻む日本家屋の別館、日本庭園にある能舞台「豊響殿」、茶室「清心庵」で構成されている、日本クリスチャン・アカデミーの研修宿泊施設です。
《雲母坂》
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=7000029
修学院鷺森から東北へ、音羽川沿いに向かうと比叡山(843m)が目に入る。この山道を雲母(きらら)坂という。夕雲がかかると洛中からは坂に雲が生まれるようであることから、雲母坂といわれたともいう。山道は、比叡と京都を結ぶ★最短の道(約5㎞)であり、古くより高僧たちが往来し、延暦寺の僧兵が朝廷への強訴などに通った道。別名勅使坂、不動坂。その後も京と近江を結ぶ幹線道路だったが、信長の命で山中越えが新しく開かれてから利用されなくなった。
・・・行ってみたいけれど、覚悟してチャレンジしなければならない、そんな坂ですね。まもなく「修学院離宮」です。
《禅華院》
606-8047京都市左京区修学院烏丸町20/075-781-2609
http://www.kotolog.jp/post/%E7%A6%85%E8%8F%AF%E9%99%A2/
山号は解脱山。臨済宗大徳寺派、本尊は釈迦如来。年代不詳、かつて天台宗であり、比叡山三千坊の一つだったという。この地一帯は、比叡山の西側にあり、大津市の坂本(東坂本)に対して西坂本(西の坂本)といわれ、延暦寺の末寺が多数存在していたという。江戸時代、寛永年間(1624-1643)、大徳寺第170世★清厳宗謂により中興された。安土・桃山時代-江戸時代前期の臨済宗の僧・清巌宗渭(1588-1661)近江に生まれた。9歳で玉甫紹琮のもとで得度、兄弟子・賢谷宗良に学び、玉穂の法嗣となる。大徳寺第170世住持。堺の南宗寺塔頭徳泉庵・臨江庵のほか、東海、伊賀、九州などで各寺を開創した。書は中国南宋の張即之の影響を受け、茶掛として珍重される。千利休の孫・千宗旦(1578-1658)参禅の師で、裏千家の茶室「今日庵」の名は清巌に由来するという。清巌は、宗旦が招いた茶席に遅れる。宗旦は、清巌に翌日再訪することを求め外出した。清巌は「懈怠比丘不期明日(懈怠の比丘明日を期せず、怠け者の出家修行者に明日を期待しない)」と書き置いて帰る。宗旦は、「今日今日といひてその日をくらしぬる あすのいのちは兎にも角にも(今日の一日を大事に過ごさなければならない、明日の命はさておいて)」という一首を献じて詫びた。この一件に因み、★「今日庵」と命名したという。本堂の本尊の「釈迦如来」、左右脇侍に「地蔵菩薩」、「観音菩薩」を安置する。楠木正成(?-1336)の信仰があったという「圓通観音」、毘沙門天・弁才天と合体した「三面大黒天」も安置されている。境内にいくつも石仏が各所から遷されている。最も古いものは、「雲母坂地蔵」といわれる「弥勒菩薩坐像」、「阿弥陀如来」の2体になる。石仏の背に平安時代後期、「大治元年五月八日」(1126年)の銘がある。かつて、雲母坂の登り口、音羽谷にあった雲母寺(きららじ/うんもじ)に安置されていた。寺は、平安時代末期の元慶年間(877-884)、天台宗の相応により創建され、比叡山延暦寺に属した。近代以降、1885年に廃寺になり、1977年、雲母坂地蔵2体が比叡山雲母坂より当院に遷された。鎌倉時代後期の等身大の「石仏」2体は、隣接する修学院離宮の田園の中にあったものが遷されたという。「山門(鐘楼門)」の二層は、鐘楼になっている。江戸時代、1826年、修学院離宮(中御茶屋)の建物を移築し、修復した。「本堂」は、昭和御大典御(1928)の際の建物の一部を移築し、翌1929年に再建された。庭は江戸時代初期の大名茶人・小堀遠州(1579-1647)作ともいう。境内に数本の楓があり、紅葉も知られている。
・・・見学の時間はないが、「山門」を観ただけでも由緒ある寺だとわかる。
【後水尾天皇】(1596~1680)
第108代天皇(在位:1611~1629)。名は政仁(ことひと)。後陽成天皇の第3皇子。母は中和門院藤原前子 (太政大臣近衛前久の娘) 。1620年 (元和6)将軍徳川秀忠の娘和子を女御とし、1624年 (寛永1)皇后宣下、中宮とした。しかし朝廷に対する幕府の圧迫が激しいため、同6年中宮和子所生のわずか7歳の興子内親王 (明正天皇) に譲位し、以後明正、後光明、後西、霊元天皇の4代にわたって★院政を行なった。1651 (慶安4) 年剃髪。学問を好み、詩歌にすぐれ、歌集『後水尾院御集』 (原名『鴎巣集』) がある。★修学院離宮は天皇の造営にかかるものとして有名である。1680年(延宝8)に85歳の長寿で崩御し、泉涌寺内の月輪陵に葬られた。なお京都市上京区の相国寺境内には後水尾天皇の毛髪や歯を納めた、後水尾天皇髪歯塚が現存する。1985年(昭和60)7月12日までは歴代最長寿の天皇でもあった。記録を抜いた★昭和天皇は、「後水尾天皇の時は平均寿命が短く、後水尾天皇の方が立派な記録です」とコメントしている。「後水尾」の読み方については、現在の宮内庁は★「ごみずのお」としているが、江戸時代中期の故実学者伊勢貞丈は「ごみのお」が正しいとしている。
《参考1》「院政」
院政は「白河天皇」が最初に始め、鎌倉時代前まで続きました。当初、徳川幕府は「院政」を認めていませんでしたが、1634年(寛永11)将軍・徳川家光の上洛をきっかけに、後水尾天皇が譲位し太上天皇となる「院政」を認めました。太上天皇(上皇)は天皇より権力をもちますから、天皇は譲位し上皇になっていきました。法皇は天皇と上皇の上の存在で、最高権力を持っていました。法皇は仏に近い存在であり、当時は神道より仏教が格上となっており仏の道に近づくほど高い地位となったわけです。しかし、基本的には天皇がトップで、上皇や法皇は隠居であり発言力が強いということです。
《参考2》天皇の退位等に関する皇室典範特例法について(首相官邸)
http://www.kantei.go.jp/jp/headline/taii_tokurei.html
(1)上皇(第3条)
① 退位した天皇は、★上皇とするものとする(第1項)
② 上皇の敬称は陛下とするとともに、上皇の身分に関する事項の登録、喪儀及び陵墓については、天皇の例によるものとする(第2項・第3項)
③ 上皇に関しては、②の事項のほか、皇位継承資格及び皇室会議の議員資格に関する事項を除き、皇室典範に定める事項については、皇族の例によるものとする(第4項)
(2)上皇后(第4条)
① 上皇の后は、上皇后とするものとする(第1項)
② 上皇后に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太后の例によるものとする(第2項)
(3)他法令の適用・事務をつかさどる組織(附則第4条・附則第5条・附則第11条)
上皇及び上皇后の日常の費用等には内廷費を充てること等(附則第4条・附則第5条)とし、上皇に関する事務を遂行するため、宮内庁に、上皇職並びに上皇侍従長及び上皇侍従次長(特別職)を置くものとする(附則第11条)
・・・何百年、これまでも・これからもこの「景色」が★人間によって保存されてきたのかと思うと、まるで★時間がとまったような不思議な★空間がここにある。