節分 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《網敷天神社御旅社》

530-0013大阪市北区茶屋町12-5/06-6371-1586

http://www.tunashiki.com/

当社は社名を「綱敷天神社御旅社」と称し、今から一千百年ほど昔の、延喜元年(西暦九〇一年)に、平安時代の学者であり政治家でもあらされた菅原道眞公が無実の罪をきせられ京都より九州の太宰府へと左遷された際に、この梅田の地で今を盛りと咲いていた★紅梅に目を留められ、それをご覧になるため、乗ってこられた船の艫綱(陸と船をつなぐ綱)を円く円座状に敷いてご覧になられました。その由縁より、「綱を敷く」という意味から「綱敷天神社」と称され今に至っております。

 

 

・・・「茶屋町」に用事があって、その帰りに立ち寄りました。年中行事をひもときますと、

 

歳旦祭(1/1)とんど祭(1/15御本社)稲荷社初午祭(2月初午)★節分祭(2/3)祈年祭(2/15)梅花祭(2/25)玉姫稲荷社例祭(5/5)★歯ブラシ感謝祭(6/4)など

 

 

・・・ちょうど「節分」の日で、「福豆」を頂戴してきました。「歯ブラシ感謝祭」というのがおもしろいですね。

 

 

【久保田裕美】

http://luckyxlucky-7.jugem.jp/?eid=109

http://kerorikawa.exblog.jp/

2007大阪教育大学大学院修了2006から壁画32か所制作、個展・グループ展多数。

 

《茶屋町画廊》

530-0013大阪市北区茶屋町8-11/06-6374-0356

http://chayamachi.com/top.html

★漫画展(漫画/グループ)2017/2/2(火) ~2/7(火)

《NEWS》2017.2.2毎日新聞より

関西在住イラストレーターらのグループ展「第49回漫画展」が2日、大阪市北区茶屋町8の茶屋町画廊で始まる。今年は、林やよいさんが兵庫面に連載中の「くるまいすまいる」シリーズの心温まるイラストとエッセーも展示される。中心メンバーが知人や仕事仲間らに呼びかけて、年1回開いている。先月まで大阪面で100回掲載した4コマ漫画「たんしんとうさん」の展示もある。7日まで。入場無料。午前11時~午後7時(最終日は午後4時まで)。

 

【佐々木侃司】(1933~2005)

http://www.kan-art.info/

1957京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)卒業。株式会社寿屋(現★サントリー株式会社)宣伝部宣伝技術課からデザイン室を経て、イラストレーターとしての頭角を現す。サントリーの「洋酒天国」や北杜夫「どくとるマンボウ」シリーズ、かんべむさしの著書などのイラストで知られる。元大阪芸術大学映像学科教授(学科長)。2005年1月24日没。

 

 

《歯神社》

530-0017大阪市北区角田町2-8

http://www.tunashiki.com/

当社は社名を「綱敷天神社 末社 歯神社」と称し、今から数百年前に梅田一帯が大洪水に見舞われ、あわや水没するかにみえた折、地元の人間がお祀りしていたお稲荷さんの御神体である巨石(本殿地中深くに鎮座)が、流れ来る水を歯止めし、梅田の水没を防いだことから、★歯止めの神さまとして慕われました。のちに歯止めの語呂が転じて歯痛止めにご利益があるお社といわれ、いつの頃からか歯神社とよばれるようになりました。

★参拝者や氏子・崇敬者の皆様の一年間の歯の健康を御祈念申し上げ、神事の後、古くなった歯ブラシを神様にお返しし、新しい歯ブラシを頂く歯ブラシ授与の行事があります。(歯神社は無人の小さなお社ですので、祭典は6月4日の例祭(歯ブラシ感謝祭)のみです。(歯の健康祈祷などのご祈祷は御旅社にて執り行なっております。詳しくは御旅社まで。)

 

 

・・・申し訳ありません、「本社」が最後になってしまいました。

 

《網敷天神社》

530-0026大阪市北区神山町9-11/06-6361-2887

http://www.tunashiki.com/

当神社は社名を「綱敷天神社」と称し、今から千二百年ほど昔の弘仁十三年(西暦822年)に、第五十二代天皇であらされた 嵯峨天皇が当地に御行幸あそばされ、現在の御本社の位置に仮の御殿を構え一宿された事に由来する神社です。嵯峨天皇崩御の後に、皇子、源融(みなもとのとおる=光源氏のモデルとも伝えられる)公が、御追悼の為、承和十年(843)、嵯峨天皇をお祀りする社殿を当地に創建し、天皇の御名をとって「神野太神宮」と称されました。後の延喜元年(901)に、学問の神様として慕われる「天神さま」こと菅原道眞公が、無実の罪により京都より太宰府までの左遷の際に、この地で今を盛りと咲いていた紅梅に目を留められ、それをご覧になるため船の艫綱を円座状に敷いてご覧になられ一時の休息を得られました。その由縁より、「綱敷」の名が興りました。この時、菅原道眞公の従者、白太夫こと度会春彦の一族らをお側近くに召され、「この地に留まり、いつか戻るその日まで待つように」と御遺訓を残され、白江の姓を賜り、また自筆の御影とお座りになられた綱を与えられ、九州太宰府へと旅立たれました。白江氏は、御遺訓に従い、この地に留まり、紅梅の樹下に小祠を営み、号を梅塚天満宮と称し、道眞公の御霊をお祀りしました。この★梅塚が「梅田」の名の由来となったとも云われています。

江戸時代以前は下原と呼ばれる低湿地帯で、泥土を埋め立てて田畑地を拓いたことから「埋田」と呼ばれました。後世になって字面が悪いので、西成郡曾根崎村「露天神社」ならびに同郡北野村「綱敷天神社」にゆかりのある梅から「梅田」表記になったと言われています。

 

・・・ここはやっぱり「梅田」なんだなあと、再認識しました。