平野のお寺(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《平野郷:大阪市編入五十周年誌》より

★「光永寺」は、1496年に坂上田村麿の後裔といわれる明鎮が創建して、平野の人々の信仰を集めた、真宗教団の中でも有力末寺だそうです。本願寺10世門主証如が記した『天文日記』に光永寺の名が頻出します。中でも1536年6月15日の記事は重要で、大坂本願寺の造営のために、「平野衆」と呼ばれる★光永寺の門徒200人が大坂へ手伝いに来ている様子が記されています。16世紀前半には、光永寺が平野郷の中で浄土真宗として、確固たる地位を確立しており、多数の門徒衆を抱えた大きな勢力であった、また本願寺教団にとって摂津南部、河内方面への重要拠点となっていたことがわかります。織田信長のため、堺も平野も屈服し銭を支払いますが、​石山本願寺は信長に抵抗を続けていました。そして、平野庄の光永寺から大坂の本願寺に兵糧米が搬入されていたのです。信長の朱印状には、平野庄から兵糧米を搬入する者がいることを指弾し、このような曲事(くせごと)をする者は成敗すると警告しています。平野庄のすべての者が信長に服従してはいなかったわけです。特にこの光永寺は石山本願寺の末寺なので、兵糧を搬入したと考えられます。

★光永寺には16世紀代の4点の画像が伝来しています。最も古いものが親鸞画像で、1537年に証如が光永寺の僧明祐に下付したという裏書を伴っています。この裏書には本願寺9世門主実如の証判も記されています。また、1589年の本願寺11世門主顕如による修復の裏書もある。さらに関連する光永寺文書がいくつかある。1582年と1596年の光永寺4世僧明春に対して、宮中から官位を与えた口宣案2通があります。

 

 

《KEN'S BAR平野郷》

547-0044大阪市平野区平野本町1-5-18/06-6791-5767

http://bar-navi.suntory.co.jp/shop/0X00019286/

http://ameblo.jp/ken-sbar/

200年以上前の建築を改装した町屋バー。中庭を見ながら飲むウイスキーやカクテルは贅沢な気分に。週2回のピアノ生演奏と季節を感じる店内装飾をお楽しみ頂けます。

 

《田邊道西脇口地蔵》平野区平野本町1-7-3

田辺方面へ通じる木戸口であった。環濠があった頃、地蔵堂は濠を背に東向きに建っていたが、昭和初期、濠を埋め道路を西へ伸長する際、南の道へ移され北向きとなった。

 

《大福稲荷大明神》平野区平野上町1-12-15

 

 

《永福寺》

547-0045大阪市平野区平野上町1-15-24/06-6791-8604

虎谷山と号し、本尊阿弥陀如来で1629年(寛永6)僧永慶の創建です。本堂は1807年(文化4)の再建で、表門は昭和初期の再建になります。昭和50年夏、境内に親鸞聖人の銅像が建立されました。

 

 

《大念仏寺》

547-0045大阪市平野区平野上町1-7-26/06-6791-0026

http://www.dainenbutsuji.com/

1127年、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建したのが始まり。平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の★最初の宗派で日本最初の念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、元禄期(1700年頃)に本山として体裁が整い、現在に至る。融通念佛宗の総本山。

 

《NEWS》2016.8.28朝日新聞デジタルより

大阪)旧平野郷、28日に「町ぐるみ博物館」幽霊画も

大阪市平野区の旧平野郷一帯で28日、町の魅力を再発見するイベント「お宝探検スペシャル 平野町ぐるみ博芸・博物館」が開かれる。地域の駄菓子屋や郵便局、自転車屋など約40カ所が会場となり、住民のコレクションや仕事道具など、暮らしに息づく「宝物」を見たり体験したりできる。「平野の町づくりを考える会」が1993年から毎年開催。今回は花と雑貨の店「花の寺小屋」で開く「ヨーロッパの雑貨と花の博物館」が新たに加わる。平野区の区花「わたの花」などを展示。同区では江戸時代から綿作りが盛んだった歴史がある。このほか、平野上町1丁目の大念仏寺では、年一回の★「幽霊博物館」(午前10時~午後4時)で怪しげな幽霊画が描かれた掛け軸10点ほどを公開。毎年、1千~2千人が訪れるという。

 

 

★「幽霊博物館」

累怨霊図:怨霊が手にする血染めの鎌と背後に見える土橋が、江戸三大幽霊のひとつとして名高い累の怨霊を表している。三遊亭円朝『真景累が淵』などでもおなじみの「殺しの場」である。

平知盛亡霊:壇ノ浦に沈んだ平家の亡霊が、源義経の海路を妨げたとする怪異は、謡曲『船弁慶』などでよく知られている。波間にたたずむ平家の武将・平知盛の足下には恨みの形相凄まじい平家蟹が描き添えられている。

姑捕鳥図:産死した女性の霊が化かすという「うぶめ」の怪。物言わぬ赤子の表情と無念さを滲ませる女性表情の対比が不気味さを感じさせる。

菅公怨霊図:菅原道真公は、無実の罪で九州大宰府に流されたあげく憤死した。その怨念は雷神と化して平安京に来襲、多くの貴族を取り殺したため、御霊として祀られることになった。地球儀のかたわらに、衣冠束帯の学匠姿で立ち尽くす本図の菅公は、怒りをジッと押し殺しているかのようである。

更屋敷お菊亡霊図:家宝の絵皿をこわしたとしてお手打に遭い、井戸に投げ込まれた腰元お菊の哀話は、いわゆる更屋敷怪談として全国に分布している。北斎をはじめ多くの絵師が手がけている画題だが、青絵の皿を両袖で揚げたポーズと容貌は、独創的というほかはない。

 

 

囲碁師亡霊図:黒白の碁石が散乱する碁盤の下から、血まみれの座頭が化けて出る光景を描く。囲碁の勝負をめぐるいざこざから、囲碁師が藩主に切り殺される一幕に始まっていたことを想起させるような図である。

仙台高尾亡霊図:仙台候伊達綱宗の意に逆らった遊女・高尾は、隅田川に浮かぶ屋形船の中で惨殺される・・・怪火とともに川面にただよう遊女の怨霊の、険しい顔つきが印象的。

小幡小平次亡霊図:奥州安積沼で夜釣の最中、妻と密通する友人に襲われ水底に葬られた旅役者、小幡小平次の亡霊が、どこまでも妻と友人につきまとい、悩まし、そして最後には二人ともにとり殺してしまう物語は陰惨である。

笑い般若図:亡者の印である三角巾を額につけた老人が、屋根の上に腰をかけて、謎めいた笑いを浮かべている。中有=死後四十九日の間、死者の魂は、家屋の棟にとどまるという俗説を描いたものだろうか。

柳の下幽霊図:「柳と幽霊」という日本的な幽霊画で、強風になびきさわぐ背後の柳の枝と亡霊の蓬髪が一体化したような効果をあげ、うらめしげな表情がなんとも不気味である。

野晒しの図:「野晒し」とは風雨にさらされて白茶けた頭骨。どんなにに華やかな人生であっても、その終末は死であり、到達するところは無であしかないことを示す。

佐倉宗吾怨霊図:佐倉宗吾は、下総(千葉県)に伝わる義民伝説の主人公。領主の悪政を将軍家に直訴したため、妻子とともにはりつけの刑に処された。幽霊の肩先に無残な切り口が見える。

 

・・・さて、とても有名なお寺なので紹介するまでもありませんが、あまり知られていない情報を掲載しておきたいと思います。