森喜久雄(16) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・せっかく発見した貴重な資料ですから、ゆっくりと読み解きながら森喜久雄さんの生きた時代を追体験していきたいと思います。(かなり脱線するかも?)

 

《NEWS》2009.1.27朝日新聞国際ニュース版アジアより

「ぶらじる丸」生きていた。解体の予定が・・・中国で観光施設に

戦後の大型移民船として活躍し、96年に解体が決まった2代目「ぶらじる丸」が、いまも中国南部の港町、湛江で観光施設として働いている。約1万6千人の南米移民者を運び、日中友好船としての歴史もある船。懐かしむ日本人が訪れている。白い船体に青いライン。赤い煙突は昔の面影を残す。前部が貨物用に使われたスリムな船は、湛江の海浜公園に係留されていた。「久しぶりだな」。42年ぶりにぶらじる丸と対面したベトナム在住の吉田栄作さん(67)が静かに語りかけた。上着の内ポケットにしのばせた乗船券は「67年9月2日出航、横浜発ロサンゼルス行き、354号室」。315ドル。当時のレートで11万3400円。大卒初任給が約3万円の時代だ。「解体されたと聞き、二度と見られないと思っていた。感動です」。米国で経営学修士を取り、鉄鋼マンとして活躍するきっかけが、ぶらじる丸での航海だった。戦時中に撃沈された初代を継いで54年に就航したぶらじる丸は、多くの歴史を背負っている。52年に南米移住が再開され、この船は移住の象徴になった。日中友好青年の船第一船として天津にも航海した。退役後の74年、三重県鳥羽市で海洋パビリオン「鳥羽ぶらじる丸」に生まれ変わるが、入場客が伸び悩んだ96年、所有者の商船三井が解体を決定。中国へ曳航され、その後の消息は途絶えた。実は、引き取り先が現れていた。「もったいない。まだ使えると思った」と語るのは「湛江海上城市旅遊娯楽」の張華生会長(62)。船を買い取り、97年、海上都市「湛江号」として再出発させた。船内に海鮮レストラン、水族館などをつくり、船の歴史も展示している。最後の船長だった川島裕さん(87)は「あの美しい船が生きているとは」と驚く。鳥羽ぶらじる丸観光の元営業課長、中井克昌さんによると、鳥羽市民を集めて見に行こうという話が出ているという。

 

・・・森さんは「ぶらじる丸」最後の就航に乗り合わせて、アメリカに渡られたそうです。

 

 

《海外移住と文化の交流センター》

650-0003神戸市中央区山本通3-19-8/078-272-2362

http://www.kobe-center.jp/index.html

1928年に開設された神戸移住センター(当時の名称:国立移民収容所)は、1971年に閉鎖されるまで、日本における海外移住の基地として、南米を中心に多くの移住者を海外に送り出しました。神戸市では、国内外からのご協力を得ながら、ブラジルの日系人団体など多くの移住関係者にとって“心の故郷”となっている、わが国に唯一現存する移住関連施設である旧神戸移住センターを、海外移住の歴史と意義を後世に継承するとともに多文化共生の拠点施設としての役割を担う「神戸市立海外移住と文化の交流センター」として再整備いたしました。過去・現在・未来へとつながるこの施設が、多くの皆様に幅広く活用されることを願っております。

 

《C.A.P.(特定非営利活動法人「芸術と計画会議」)》

神戸市立海外移住と文化の交流センター内/078-222-1003

http://www.cap-kobe.com/index.html

★「森きくお絵画展」

2004年6月19日(土)~7月19日(祝)ギャラリー海側 他

「山花空」san ka ku バリ島のインスピレーション シリーズ

バリ島で絵のインスピレーションを得て20年、そして住み始めて3年半。本展ではバリのエネルギーから得られたインスピレーションによって描かれた新作と色彩豊かなモチーフで染め上げられたバティック・サロンをご紹介します。また、インドネシア関連企画として、ガムラン公演やバリの木彫の動物に彩色するワークショップなども7月17日(土)「バリの白木彫り動物をペインティングしよう」

【要予約 参加費:1,500円】講師:森きくお

対象:小学生以上/一回目13:00~14:40二回目15:00~16:30

参加ご希望の方は、必ず1回目、2回目のどちらかにご予約ください。汚れても良い服装で、タオルを持参してください。出来上がった作品はお持ち帰りいただけます。

 

・・・2008年春から約1年かけて行われる建物の改修工事を機会に、CAP HOUSEプロジェクトを2007年12月26日で終了いたしました。そして新たに、

《参考》KOBE STUDIO Y3

http://www.cap-kobe.com/kobe_studio_y3/

神戸市立海外移住と文化の交流センターでC.A.P.が運営するアートプロジェクトです。ここでは、様々なアーティストがスタジオのドアを開け、活動を公開しています。またこのスタジオのアーティストたちを中心に、ワークショップや展覧会などのプログラムも実施しています。ぜひお気軽にご参加下さい。

 

 

・・・「ぶらじる丸」との縁もあって、神戸市立海外移住と文化の交流センターのギャラリーで個展とワークショップを2004年に開催されています。

 

 

【1970~1972「モリスフォーム」Moris Form】大阪市南区玉屋町25

森さんが弟★英二郎さん・写真家★夏谷英雄さんと始めた、道頓堀から宗右衛門町筋にちょっと入った、右側のビルの奥にあったモリスフォーム、大阪の若者文化を一手に担ったフリー・スペースでした。

http://soemon-cho.com/

座敷みたいなところで、関西フォークの拠点として西岡恭蔵、山下洋輔、福岡風太など多彩な顔ぶれがライブを行いました。大阪では、関西フォークの拠点として有名な「ディラン」もあり、単なる「音楽喫茶」ではなく、営利目的は二の次で活動や発展を支援し、自由に面白い活動が展開されました。

また、森さんは「ジャム&バター」というニューズレターの編集発行も行っておられました。「ジャム&バター」の表紙には、当時の★「具体」のアーティストの作品から、森さんのアメリカ時代の友人★ラウシェンバーグの作品まで、驚くようなアーティストが参加していました。★嶋本昭三さんの個展が誌面に大きくとりあげられたり、関西お笑い界★岡八郎さんの作品まで登場していました。さまざまなジャンルの人たち(無名時代の井筒和幸さんなど)が集まり、モリスフォームで交流していました。

 

・・・「モリスフォーム」については、多くの人が出入りされており、かなり有名になられた方々おられますので、それらの方々に発信していただけるとうれしいですね。夏谷英雄さんも、「わたしの仕事4(活字や映像をつくる人)」(著:今井美沙子)に登場されていました。

 

 

《ギャラリーパライソ》

542-0086大阪市中央区西心斎橋2-10-27森ビル3階/06-6213-8053

http://www.paraiso-tv.com/event/index.html

 

《1986フェスティバルあまがさき》

・・・「わたしの仕事」(著:今井美沙子)の取材・写真を担当されている夫★今井祝雄さんに声をかけられて、「壁画」を始められたということです。

 

★2016年5/12(木)~6/19(日)「クレジオ、耕衣、九条」今井祝雄展より

《読めない記述の集積》

http://plus1art.jp/No10IMaiNorio.html

いま、この文章を読んでいるあなたは、文字に目を走らせてはいるけれど、文字そのものを見てはいない。読んでいるのである。読めるがゆえに見ることをしないのである。と、ここまで読んで今しばし、この文字を見ておられるかもしれない。が、また読み進めるうちに見ることを忘れ、読み続けていくにちがいない。 (…) 読める文章が読めなくなったとき、それは “見る” ことを要請する。(今井『白からはじまる―私の美術ノート』246頁、ブレーンセンター、2001年)
昨年、とある印刷所で60年前に製造された活版印刷機の埃を払って稼働してもらい、15年ぶりに文字による紙作品を制作した。憲法九条の120字を、重ね、ずらし、反転…。普通ならボツとなるさまざまな方法に加え、活版ならではの空刷りにフロッタージュを施したりして、読みづらく、あるいは判読不能な数々の作品ができた。そもそも高校時代に現代美術を意識した最初の拙作は、文字がひしめく新聞紙の上にステンシルで数字を散りばめたものだった。ほどなく「具体」に参加して白いレリーフをつづけたが、同会が解散した1972年、愛読していたル・クレジオの小説から『三つの頁』ならびに『三つの見開き』を、2001年には俳人・永田耕衣の文学碑を手掛けた折の句を一字ずらし、五・七・五の3分節を3原色で、いずれもシルクスクリーンで刷り重ねた。私の場合、変わらない興味や関心が形を変えながら、ひとつの手法として反復することが少なくないが、そんな時を隔てた「クレジオ、耕衣、九条」を、今回、一緒に並べることになった。いずれも印刷とはいえ、ほとんどエディションがなく、紙の上の出来事というべき読めない記述の集積である。目を凝らし、耳を澄まし、考えつづけることが困難な現代において、あえて、読めない、読みづらい字面を凝視することから何が読み解けるだろうか。今井祝雄

 

《1988大淀DATS》大阪北梅田再開発(新梅田シティ開発プロジェクト)

http://www.skybldg.co.jp/city/history.html

1987年、国鉄が民営化され、当時の国鉄清算事業団は赤字解消のため梅田貨物駅売却を決める。貨物機能を吹田操車場跡地へ移転させる計画を発表。大阪のテレビ局5局を集めるという「メディアシティ・フォーラム」などの再開発計画が進む。

「大淀DATS」ダイハツディーゼル(D)、青木建設(A)、東芝(T)、★積水ハウス(S)の4社の共同事業。1989年3月最終プラン、基本設計。1990年着工、42階オフィスビルとホテル、各企業の所有地を共同利用して大規模な都市施設の建設。

《新梅田シティ》

大阪市北区★大淀中にある梅田スカイビル、ウェスティンホテル大阪を中心とする複合施設。JR大阪駅の北西に位置する。旧ダイハツディーゼル本社・大阪工場跡地、旧東芝関西支社跡地とその周辺地域の再開発の一環として1990年2月に着工。1993年春に完成した。

 

・・・タテ3m×ヨコ100m工事塀の壁画、観たかったなあ、写真だけでも残っているといいのに。

 

 

《STROKE》

550大阪市西区南堀江4-28-15山下ビル1階/06-532-2021

「ぼくはね、いつでも、気分は労働者やよ。・・・20坪あって、もとは酒屋さんの倉庫だったんです。2か月ほどかけて、あらましは大工さんにやってもらって、あとはトンカチ、あるいは塗ったり、自分の手作りです。ここでね、ワンナイトショーと名付けて、一夜だけの展覧会をして、パーティーをするんです。月1回だけど。・・・パーティー好きなんですよ、ぼく。」

 

「ぼくの好きな画家はゴーギャンです。」

http://www.gauguingallery.com/

 

弟(★森英二郎)に相談したら、「場所でものを創ったらあかん、日本であろうと、アメリカであろうと、自分の本当に創りたいものを創ったらいいんや。」と諭されてね。

http://arco.blog.so-net.ne.jp/

 

「自分の人生やから、好きなように生きて、くたばったらいいんやから・・・。」

『月と六ペンス』(The Moon and Sixpence)

http://www.gutenberg.org/ebooks/222

1919年に出版されたサマセット・モームの小説。画家のポール・ゴーギャンGauguin Paul (1843~1903) をモデルに、絵を描くために安定した生活を捨て、死後に名声を得た人物の生涯を、友人の一人称という視点で書かれている。この小説を書くにあたり、モームは実際にタヒチへ赴き、ゴーギャンの絵が描かれたガラスパネルを手に入れたという。題名の「月」は夢を、「六ペンス」は現実を意味するとされる。

1891~1893 ゴーギャン滞在する。文明化した首都パペーテに嫌気がさして、馬車で5時間ほどかかる島の反対側のマタイエアに移り住む。

1895ゴーギャン、再びタヒチに戻る。

1901ゴーギャン、マルキーズ諸島へ移住(1903年に彼の地にて死去)。

 

・・・森喜久雄さんは、2015年にバリで亡くなりました。そして今年1周忌、あらためて「記憶と記録」にとどめるための作業(調査研究)を続けています。