森喜久雄(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・追悼展会場で、森さんの作品や資料をゲットしました。

 

《1992ドリームスケープ》著:森喜久雄/発行:折田知子

発行所:(有)★ストローク/印刷・製本:大阪精版印刷所

550大阪市西区南堀江4-28-15山下ビル1階/06-532-2021

アジアを旅し始めて、自然や、その恩恵に生きる人々に接し、自分の中にある霊感を呼びおこされスケッチを始めました。そこには日本の街の現実とは異なる、まるで夢をみているような世界がありました。風景、静物、人物は突然スケッチの対象となり、描くというよりは描かされていたといった方が適切で、その絵に色を入れることにより新しい光とエネルギーが蘇る。体に焼きつけた思いを宿へ帰って彩色する時の楽しみは、私に絵を描かされた事の喜びを感じさせます。このスケッチ集は皆様にもその喜びを少しでもシェアーして欲しいという思いからカラーリングブックとして発行する事になりました。皆様の想いの色と光を入れて、私のスケッチを旅して下さい。

 

・・・森さんの原画をもとに、tomocaさんがプロデュースしたバティックのクッションカバー。森さんが残したタブローを裁断してカードにしたものなど、どれもこれも貴重なものばかりです。

 

 

・・・「ストローク」のあったビルは、まだ残っているみたいなので、また行ってみたいと思います。

 

《参考》バティック

http://bali.navi.com/special/5036518

インドネシアの手工芸品として代表的な物の一つが「バティック」と呼ばれるろうけつ染めのジャワ更紗。インド更紗の影響を受けて作られるようになった「バティック」は、ジャワ島で花開き、インドネシアの各地へ広がりました。民族毎で違いがあるものの、各地方の正装はバティックを身にまとうところも多く、バリでヒンドゥー教の儀式が行われる際に巻かれる「サルン」もバティック、そして宗教儀式以外の公共の場所や大きなイベントなどではバティックのシャツがフォーマルな装いとして、民族衣装、洋装ともにいろいろなシーンで活躍していますが、その昔はジャワの王族や貴族しか身につけることができず、王族以外身につけることが許されない模様もありました。そんなバティックがバリへ入って来るようになったのは、金の装飾を施すことがきっかけだったと言われています。もともとバリではバティックは作られていなかったのですが、バリで作られていたのは「カイン・プラダ」と呼ばれる金でモチーフを描く煌びやかな布。今も伝統舞踊のダンサーが身につけています。ジャワで作られたバティックはバリへ運ばれ、バリ独特の金の装飾を施されるようになりました。そして、そのうちバティック職人自体がバリへ移り住み、バリでバティックの生産から金の装飾までを施すようになり、次第にバリにもバティックの文化が根付くようになっていったのです。それがどんどん庶民に広がるにつれて、インドネシアの各地で様々なデザインや色合いのものが生まれ、発展していきました。このようにバティックは工芸品であるだけではなく、インドネシアの文化、風習とも深く関わっているのです。

 

 

・・・森さんといっしょに壁画を描いたという、「諸戸さん」にもお会いすることができました。

 

【諸戸美和子】イラストレーター

http://www.ne.jp/asahi/mappy/morochan/

★モリスフォーム、ハローアゲンスタジオを経て1976年フリーのデザイナーに。その後、1年仕事をしては半年間インド、ネパールを旅するということを繰り返す。衣食住にはほとんどお金を使わず、すべて旅の費用につぎ込み、ネパールには計7回、その他ニューヨーク、バリ島、中国などに行きまくったが90年以降は小休止。旅先で訪れた国の人達の似顔絵を描きためている。今までで一番興奮した仕事は、1976年アメリカはメンフィスのバンド/アメージング・リズム・エイセスのレコードジャケットにイラストが採用されたとき。

 

 

・・・せっかくの桃谷ですから、「豊川稲荷」に寄って帰りたいと思います。

 

《桃谷(旧桃山)駅界隈》

上町台地に位置し、古代に「大和」から「難波津」へ至る要衝であり、東アジアの諸外国との外交の玄関口で、また、仏教文化の受容や渡来人に因んだ地である。難波宮の朱雀大路が開設され、「細工谷遺跡」の発見があり、「堂ヶ芝廃寺」「百済寺」「難波大別王寺(なにわおおわけわんじ)」などの伝承が残る。近代では桃の名所で知られ、別荘が拓かれ郊外住宅を形成してきた。阪急の創始者「小林一三」は明治40(1907)年から烏ヶ辻の藤井別荘に住まいし、有馬稲子や小田実も居住した。「桃山学院」は、川口外国人居留地が発祥の地だが、明治28(1895)年当時の所在地筆ヶ崎一帯が桃の名所だったことに由来し「桃山」を名乗ったとされる。「桃山駅」は明治28(1895)年、初代大阪鉄道の駅として開業し、明治33(1900)年合併により関西鉄道となり明治38(1905)年に桃谷駅と改称、明治40(1910)年国有化された。

 

《専行寺》真宗大谷派(本尊:阿弥陀仏)

543-0033大阪市天王寺区堂ヶ芝2-11-32/06-6771-5279

天正5(1577)年西成郡上難波村に一寺を創立し、開基は長専。第4世宗月は大阪の町役をする。万治2(1659)年、第5世超専によって、上難波町(現:中央区南久宝寺町5丁目)に坊舎が建立され、寛文4(1664)年に東本願寺第13 代宣如上人より専行寺の寺号を賜る。享保9(1724)年、延享3(1746)年に大火にて類焼し、再建。その後、昭和11(1936)年、第15 世覚緑の時に御堂筋の拡張に伴い現在の場所に移転する。昭和20(1945)年6月の空襲により、数ヵ所被爆するが、本堂と庫裏は原型を留め、今日に至る。

 

《大阪芸術大学附属松ヶ鼻幼稚園》

543-0034大阪市天王寺区松ヶ鼻町4-4/06-6771-2348

http://www.kids.osaka-geidai.ac.jp/m/

幼児期は、集団生活によるさまざまな体験を通して 積極性や自主性を修得すると同時に、 集団におけるルールやマナーを身につける時期です。与えられたものをただ記憶したり、答えをみつけるための学習ではなく、 「遊び」を通して多くを学ぶことが、小学校以降の学習とは大きく異なるところです。子どもが新しい環境に自ら積極的に関わって興味や関心を広げ、 発見することの喜びや驚きを感じることが、学びの基礎となります。私たちは、これこそが「生きるちから」となる学びであると考えています。また、幼稚園という集団で遊びを通して「生きるちから」を学ぶためには、 協力することの大切さや他者の心情を感じ取ったり、 お互いの心情をぶつけ合ったりすることで得られる共感性が必要です。こうした協力することの大切さや共感性を 「思いやりのこころ」という言葉に集約しています。本園の大きな特色は、幼稚園教諭を養成する保育学科を有する大阪芸術大学の附属幼稚園であるということです。「芸術」においては、年間を通して芸大教員による音楽指導を日常保育のなかで行い、お遊戯会や4園合同音楽会という発表の機会を設けています。また造形表現においては、専門教員の指導のもと「作陶体験」を年一度、卒業記念として実施。音楽領域、造形領域ともに、幼稚園教諭は芸大教員から指導やアドバイスを常に受けながら保育を展開しています。教員養成学科を有することで、短大保育学科や芸大初等芸術教育学科の学生との交流が持てるのも芸大附属幼稚園である魅力のひとつです。短大女子柔道部の指導者や学生との柔道遊びにより、体をぶつけ合う遊びの体験や礼儀を身につける活動を続けています。大阪芸大グループという大きな学校法人であることから、経営基礎が安定していることも安心して子どもの教育を任せていただける要素だと考えています。芸大キャンパスを活用しての運動会や遠足など、幼稚園施設だけでは行えない行事を実施したり、白浜や信州菅平の保養施設を保護者も利用できるといった利点もあります。

 

 

《豊川稲荷・観音寺》

愛知県豊川市にある豊川稲荷(豊川閣妙厳寺)の別院。豊川稲荷の由来は、愛知県豊川市にある曹洞宗の名刹「豊川閣妙厳寺」の開祖・東海義易禅師が、文永4(1268)年入宋求法から帰朝する際、稲穂を担い、手に宝珠を掲げ、白狐にまたがって海上に至現した霊神にある。禅師はその神示に深く感動して、帰朝後に至現の姿を手ずから刻んで守護神として、豊川枳尼真天を祀ったという。明治31(1898)年11 月に三河国八名郡三上村字深田(現・愛知県豊川市)より移転。篤信家によって豊川枳尼真天が初めて祀られた。移転当時、お寺の付近は桃山桃林の中で住宅はほとんどなかった。なお、周辺は6 世紀半ば、難波宮があった頃に建てられた寺院址(難波大別王寺又は百済寺の説があり、古代の瓦が多く出土している)とされている。

 

 

《堂ケ芝廃寺》

現豊川閣観音寺周辺では、昔から白鳳~平安時代の瓦が出土し、かつては方形柱座を彫り込んだ巨大な塔心礎(百済王との扶余にある軍守里廃寺の地下式心礎に類似)が残っていたと伝えられる。これまでの調査では、直接、寺院にかかわる跡は見つかっていないが、周辺で多くの古代瓦が発見されており、寺院の中心は観音寺の周辺にあったと考えられる。堂ヶ芝の南方には「百済寺」の字名も残っており、百済王氏の氏寺である摂津国の百済寺に比定される可能性が高い。谷を隔て、細工谷遺跡所在の尼寺と対面する景観が復原される。

 

・・・tomocaさんのお話では、森さんが亡くなって数日間、毎日のようにカエルがやってきてジッとしていたそうです。この豊川稲荷でカエルと出会うのも、何か不思議な気がします。