はじめに | すくらんぶるアートヴィレッジ

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はじめに

・・・まさか「キリン」の特集テーマを組むことになるとは、思ってもみませんでした。「キリン」に興味を持った最初は、「麒麟」です。

【麒麟】

麒麟(チーリン)は、中国神話に現れる伝説上の霊獣である。獣類の長とされ、これは鳥類の長たる鳳凰と比せられ、しばしば対に扱われる。ただし『淮南子』によれば、麒麟は諸獣を生んだのに対し、鳳凰は鸞鳥を生み鸞鳥が諸鳥を生んだとされており、麒麟と対応するのは正確には鳳凰より生まれた鸞鳥となっている。日本と韓国では、この想像上の動物に似た実在の動物も「キリン」と呼ぶ。形は鹿に似て大きく背丈は5mあり、顔は龍に似て、牛の尾と馬の蹄をもち、麒角、中の一角生肉。背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には鱗がある。基本的には一本角だが、二本角、三本角、もしくは角の無い姿で描かれる例もある。普段の性質は非常に穏やかで優しく、足元の虫や植物を踏むことさえ恐れるほど殺生を嫌う。神聖な幻の動物と考えられており、1000年を生き、その鳴声は音階に一致し、歩いた跡は正確な円になり、曲がる時は直角に曲がるという。また、動物を捕らえるための罠にかけることはできない。麒麟を傷つけたり、死骸に出くわしたりするのは、不吉なこととされる。また、『礼記』によれば、王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物「瑞獣」とされ、鳳凰、霊亀、竜と共に「四霊」と総称されている。このことから、幼少から秀でた才を示す子どものことを、「麒麟児」「天上の石麒麟」などと称する。孔子によって纏められたとされる古代中国の歴史書『春秋』では、誤って麒麟が捕えられ、恐れおののいた人々によって捨てられてしまうという、いわゆる「獲麟」の記事をもって記述が打ち切られている。

『詩経』以来の古文献では、「麟」の1字で表されることが多かったが、「麒」も稀に使われた。『説文解字』により、オスを「麒」、メスを「麟」と呼ぶようになった。ただし、この雌雄を逆にしている資料もある。麒麟にはいくつか種類があると言われ、青い物を聳弧(しょうこ)、赤い物を炎駒(えんく)、白い物を索冥(さくめい)、黒い物を角端(かくたん)、黄色い物を麒麟と言う。

明の鄭和による南海遠征により、分遣隊が到達したアフリカ東岸諸国から実在動物のキリンをはじめ、ライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどを帰国時の1419年に運び、永楽帝に献上した。永楽帝はとくにキリンを気に入り、伝説上の動物「麒麟」に姿が似ていたこと、また現地のソマリ語で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」の音に似ていたこともあり、“実在の麒麟”として珍重したと言われる。そしてこの故事がキリンの日本名の起源となった。また韓国でも同じく「기린(キリン)」(麒麟、)と呼ばれているが、伝説発祥の地・中国で現在は、キリンは「麒麟」ではなく「長頚鹿」(“長いくびの鹿”)と呼ばれている。

 

 

・・・それほどアルコールに強くはありませんが、それでもビールなら「キリン」と飲んでいた時期があります。

 

《キリン株式会社》

164-0001東京都中野区中野4-10-2中野セントラルパークサウス/03-6837-7001

http://www.kirin.co.jp/

「キリンビール」のブランドが誕生したのは1888(明治21)年のことでした。商標を「麒麟」にしようと提案したのは三菱の★荘田平五郎で、当時、西洋から輸入されていたビールのラベルに動物の絵柄が描かれていたことから、東洋の想像上の動物である「麒麟」を採用したのではないかといわれています。

http://www.kirin.co.jp/entertainment/museum/brand/01.html

発売時のラベルには「麒麟」が小さく描かれていましたが、翌1889(明治22)年、当時ジャパン・ブルワリー・カンパニーの重役であった★トーマス・ブレーク・グラバーの提案により、「麒麟」が大きく描かれた、現在もおなじみのラベルに変更しました。「キリンビール」を製造していたジャパン・ブルワリー・カンパニーは、品質の良い、本格的なドイツ風のビールを醸造することにこだわりました。まず、ドイツから資格ある醸造技師を招聘し、麦芽・ホップなどの原料や機械設備にいたるまでをドイツから輸入しました。また、品質面では、ビールの分析結果を株主総会で報告したり、麦芽やホップなどの原料だけではなく、びんや栓の品質についても重役会で議論をしたりしていました。1907(明治40)年、「キリンビール」の商標は、その品質へのこだわりとともに、ジャパン・ブルワリー・カンパニーから麒麟麦酒株式会社に引き継がれました。以後、「キリンビール」に描かれた聖獣「麒麟」の図柄は、「キリン黒ビール」「キリンスタウト」など、他のビール商品にも使われるようになります。また、社名でもある「キリン」というブランドは、「キリンレモン」などの清涼飲料にも拡がっていきました。太平洋戦争前後の混乱期、ビールは配給の対象となり、商標は一時期姿を消します。終戦の年にはビール醸造停止の勧告が出されましたが、醸造が完全に停止する前に終戦をむかえ、「キリンビール」の醸造に欠かせないビール酵母は何とか受け継ぐことができました。終戦から4年後の1949(昭和24)年、聖獣「麒麟」が描かれた「キリンビール」は、青一色刷りのラベルで復活しました。高度経済成長期に入ると、ラベルは多色刷りに戻り、ビールの生産量は1年につき増加率約20%という驚異的なスピードで増えていきました。増産体制がとられ、戦前に4ヵ所だった工場は、1972(昭和47)年には12ヵ所となりました。そのような中でも、キリンビールは、全工場で高品質の「キリンビール」をつくるための努力を惜しまず、つねに品質本位の姿勢を貫いてきました。1988(昭和63)年、「キリンビール」の商品名は「キリンラガービール」となりましたが、ラベルのデザインは120年以上経った今もほとんど変わっていません。「キリンビール」のブランドは、その品質本位への思いとともに、現在に引き継がれています。

 

 

★キリンビールの「麒麟」をデザインしたのは、

キリンビールのラベルの麒麟の図案は、漆工芸家★六角紫水(1867~1950)によるものです。日本の漆工芸界の草分け<旧姓・藤岡、幼名・仲太郎。のち注多良と改名。 広島県能美島、大柿町(現江田島市)生まれ。

《参考》「ホテル南水」

780‐0901 高知県高知市上町1丁目7‐12/088‐873‐2181

http://www.nansui.ne.jp/

土佐が生んだ幕末維新の英雄・坂本龍馬。当館は、彼が生前暮らした高知城近くの屋敷跡に佇んでいます。お料理は黒潮にもまれた新鮮な海の恵み、土の香り豊かな山の食材。春夏秋冬、それぞれの味覚が豪快に、鮮やかに膳を彩 ります。土佐の風土に育まれた伝統の味、そして新たな味覚との出会いをお楽しみ下さい。さて、「キリンビール」と「坂本龍馬」ことの起こりは、

1)龍馬が、三菱の創始者である岩崎弥太郎と武器商人トーマスグラバーを引き合わせたこと。

2)両者がJapanブルワリー社を創り、

3)明治21年、キリンラガービールが誕生した。

キリンは、龍の頭と馬の胴体を持ち、これは坂本龍馬を表す。

 

 

《麒酒司稲荷神社》

735-0021広島県安芸郡府中町大須2-1-1/082-890-2200

キリンビール広島工場開業当時に設置された稲荷神社は、2010年(平成22年)まではブルワリー棟の横に、その後は麒麟麦酒★広島支社の敷地内に移設されています。

(麒麟像建立誌)麒麟麦酒株式会社は創立以来幾多の変遷を経て、業容の発展のうちに七十有余年を閲したが、今日の盛業は偏に先輩諸氏の労苦の賜物であり、この機にあたり物故された諸先輩の遺徳を偲び、冥福を祈念するため昨年十一月千古不滅の霊場たる高野山に供養塔を建立するに到った。その祈塔域内にわが社の象徴たる麒麟像一体を、守護像として定置したが茲に供養塔建立に因み、同型のものを鋳造し本店工場並びに総合研究所に、これを設置し永くその意を伝えんとするものである。

昭和五十六年三月吉日 麒麟麦酒株式会社 取締役会長:佐藤保三郎、取締役社長:小西秀次

 

《参考》「麒麟稲荷神社」に生まれ変わるキリン舞鶴工場から移設・大森神社で鎮座式【舞鶴】2013.11.11

10月に製造を終えた倉谷のキリンビバレッジ舞鶴工場屋上に置かれていた稲荷神社神殿が、森の彌加宜神社(大森神社)に移設され、11月11日、関係者が出席し鎮座式が行なわれた。新しく麒麟稲荷神社として命名され、今後も11月11日に例祭を続ける。舞鶴工場の機能を滋賀県内の新事業所に移すのに伴い、工場は12月10日に閉鎖される。屋上の稲荷神社の移転先を竹重和行・前工場長が彌加宜神社の田中國雄宮司に相談し、今回の移設が実現した。稲荷神社は1992年に開設された工場の安全を祈願して安置され、操業日の3月3日に合わせ毎年稲荷祭を催してきた。竹重・前工場長は毎朝、社員の無事故と健康を願って参拝していたという。彌加宜神社本殿の左側に移された稲荷神社前で鎮座式が催され、工場の沼田好則総務部長や氏子らが参列し、玉串などを捧げた。稲荷神社の奉納を受けた田中宮司は「舞鶴工場の関係者に神社のことを覚えていてもらえるように、来年から11月11日午前11時に例祭を行ないたい」と話す。

 

・・・ということだそうです。さてさて、霊獣「麒麟」はこれぐらいにして、つい最近★「葛城アート」でキリンに出会いましたので、そのことについて、

 

 

【弓手研平】(画家★葛城発信アートフェア実行委員会)

http://blog.livedoor.jp/k_yunde/

 

《相撲館(けはや座)》

639-0276 葛城市當麻83-1/0745-48-4611

http://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/17,2985,80,html

相撲館けはや座は、全国でも珍しい相撲の資料館です。1階中央には、本場所と同サイズの土俵があり、その上に上がることができます。また実際にまわしを巻いて、土俵に上がり、「しこ」「すり足」等の相撲の基本動作を指導を受けることができます(但し、基本動作の指導を受けたい方は事前の確認の必要があります)。

★「葛城発信アート」企画展示の一つ、アフリカ・タンザニアのティンガティンガアーティスト、アグネス氏の作品にちなんで、グッズ販売をしていました。

★平成の中将姫「蓮花ちゃん」

ティンガティンガ派の画家「アグネス・ムパタ」さんが、葛城発信アートフェアのために描いてくれたものだそうです。

http://www.city.katsuragi.nara.jp/renkachan/

 

 

《當麻寺「宗胤院」》

639-0276奈良県葛城市當麻1263/0745-48-2649

http://katsuragi-artfair.com/area-18/

ぼたんの花よりも茶花、山野草に重きをおいている寺である。自然の花に触れることによって、自分自身が、自然に溶け込み、野草の可憐さ、素朴さ、やさしさ、強さを知る野草は、私達にこのことを教えてくれるのに充分な表情の豊かさを持っている。また、当院の点心風茶がゆ(要予約)は、こうした野草の素朴さの中から生まれたもので、贅沢を捨て、一時しのぎをすること、これが点心である。当院の玄関の前にある蹲踞(つくばい)には「吾唯足知」という文字が掘り込まれている。宗胤院は足りることを知る「知足」を根底に置きたいと思っている寺である。

【宮下寛昇】書家

http://www.lint.ne.jp/~s-kansyoh/index.html

私は1943年に生まれ、現在奈良県の當麻寺宗胤院(そいにん)という寺の住職をしていますが、書や水墨画などの個展を日本国内や海外で開いています。以前は華道、茶道の教室を開いていましたが、今はほとんど書と水墨画に多くの時間を使っています。

 

【ティンガティンガ (Tingatinga)】

http://www.africafe.jp/barua85tinga.html

1960年代にタンザニア・ダルエスサラームにおいて、エドワード・サイディ・ティンガティンガ (Edward Saidi Tingatinga、1932年 - 1972年) が生み出したポップアートの手法。主に動物や植物などの自然が描かれる。ティンガティンガ絵画ともいう。当初は、メゾナイトと呼ばれる建築資材にエナメルペンキで描かれた、日常生活の傍らとしての芸術であったが、専門的な絵画教育を受けていない素朴な技法が評価された。創始者のエドワードが40歳のときに、警官に誤射され不慮の死を遂げた後も、同じ手法や画風を継ぐ弟子たちの画家によって描かれ、世界中に広まっている。日本でもインターネットを利用した通信販売などの手段で入手することが可能である。2007年8月1日よりスターバックスコーヒーの銀座マロニエ通り店において展示を行っている。描かれる対象としては、サルやヘビなどの身近な動植物から、自然における神聖とされているものまで多岐にわたるが、一般に人工物よりも自然物が多く描かれる。また、創始者のエドワードが美術の教育を受けていなかったこともあり、自由な作風が特徴的である。ダルエスサラーム郊外に、ティンガティンガの画家が集まって生活している村がある。制作は村内の協働の工房で行われ、生前のエドワードから直接学んだ年長者が手法を伝達し、若い画家を指導している。現在、村はエドワードを頼った甥のオマリー・アモンデ (Omary A. Amonde) が中心となっている。