葛城アート(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・たくさんの賞、たくさんの方々への表彰があったので、結構くたびれましたが、何よりも主催者側のご苦労がヒシヒシと伝わってきました。

 

 

・・・表彰式から一夜明けて、「葛城アート」最終日・搬出の日がやってきました。思い残すことのないように、再度会場を巡りましたが、やっぱり「中将姫」のことに、ふれておきたいと思います。

 

 

《参考》中将湯

http://www.hmaj.com/kateiyaku/chuujou/

http://www.tsumura.co.jp/

聖武天皇の天平19年(747年)、かねて子がなく神仏に願をかけていた豊成(藤原鎌足の孫)と紫の前(品沢親王の息女)との間に一女が生まれ、中将姫と名づけられました。中将姫が5歳の時、母が亡くなり、父豊成は橘諸兄の息女照夜の前を後妻に迎えました。中将姫が8歳の春、孝謙女帝の御前で催された節句の祝賀で、中将姫は見事に琴を弾いて女帝のお褒めを賜ったのに対し、義母の照夜の前は箏の役で不覚をとり、その後、中将姫に憎しみを抱くようになりました。照夜の前は何度も中将姫の殺害計画を立てましたが成功せず、過って実子・豊寿丸まで死なせてしまいました。

中将姫が14歳の時、照夜の前は豊成が諸国巡視の旅に出たのを好機として、中将姫に汚名を被せ、家臣・松井嘉藤太に、ひばり山で姫を殺すように命じました。ところが嘉藤太は、日頃から念仏に勤しみ亡き母の供養を怠らない心優しい中将姫を殺すことができず、照夜の前を欺いて、中将姫とひばり山で隠れ住むことにしました。都に戻った豊成は、中将姫の死を嘆き悲しみましたが、翌年・狩猟で山入りした際に中将姫と再会、都に連れ戻しました。

中将姫は16歳の時、后妃の勅を賜りましたが、世上の栄華を望まず、名藍の聞こえ高い当麻寺に入って仏の道に仕えることを決心しました。こうして中将法如となった姫は、称讃浄土経一千巻を書写した後、当麻曼荼羅を織り上げました。その後、仏道に精進を続けた中将法如は29歳で極楽浄土に導かれていきました。

中将姫が家を出て最初に身を寄せたのが、初代★津村重舎の母方の実家★藤村家といわれ、それを契機に交流が始まりました。中将姫は当麻寺で修行していた頃、薬草の知識も学び庶民に施していましたが、その処方を藤村家にも伝え、それか藤村家家伝の薬・中将湯となったということです。

 

 

《NEWS》2014.5.30大阪日日新聞より

入浴剤あの顔のモデル/文:亀井澄夫(日本妖怪研究所所長)

東大阪市大蓮東「中将姫供養塔」。今回は麗しの中将姫伝説である。天平19(747)年、藤原豊成に女の子が生まれた。長谷寺の観音様に祈願して、ようやくできた娘である。しかし、姫が5歳の時に母は亡くなり父は後妻を迎えたが、男の子ができたことで後妻は姫を憎み、14歳の時、後妻は家臣に姫を殺すよう命じた。だが、心やさしい姫をどうしても殺せず、家臣は日張山の青蓮寺に隠した。翌年、父が宇陀に狩猟に来た際、洞窟で読経する女性に出会い、それが実は姫であることが分かって、姫を都に連れ戻した。13歳の時、三位中将の位を持つ内侍となり、それから中将姫と呼ばれるようになった。16歳の時、世上の栄華から離れ、二上山の當麻寺にて仏の道に仕えることを決心する。姫が生身の弥陀を拝みたいと念じていると、長谷寺の観音が現れ、蓮華(れんげ)の茎から糸を取って曼陀羅を織るがよい、と教えられた。そこで、近江・大和・河内から蓮(はす)の茎を集めて「當麻曼茶羅」を織りあげた(この織物は最古にして最大ということで国宝に指定されている)。そして姫が29歳の時、阿弥陀如来と二十五菩薩が現れて、中将姫を生きながら西方浄土へ迎えたという。(以上、諸説あり)さて、日張山で最初に身を寄せた藤村家で姫は、婦人病によく効く秘薬を藤村家に伝え、それが藤村家家伝の薬「中将湯」になった。★津村順天堂(現・株式会社ツムラ)の創業者、津村重舎は日張山青蓮寺の檀家であり、母の実家の藤村家に伝わる中将湯を婦人薬として商品化し、大ヒットさせた。だから津村順天堂のマークは創業当時から中将姫なのである。中将湯もお茶だけでなく明治30(1897)年に「浴剤中将湯」が発売される。それが昭和5(1930)年に「バスクリン」と改名され、今もロングセラーを続けているのだ。その姫の供養塔が高槻市にあるということで行ってみた。場所を近くのおばちゃんに聞いてみたら「あんたみたいな人が、ようウロウロしてるで」と言いつつ、丁寧に教えてくれた。そこには案内板も何もなかったが、異説では、幼い中将姫を守った「産婆」が住んでいたともいう。多くの人は中将姫のことは知らなくても、津村順天堂のマーク(現・メモリアルマーク)の清純でかわいく、気高ささえ感じる美人のことは誰もが思い出すことだろう。能に姫を題材にした「當麻」や「雲雀山」があり、御伽草子や草双紙のヒロインでもある。高槻市の供養塔を誰が作ったか知らないが、中将姫のことが大好きな人であることは間違いない。そう、中将姫は忘れがたく、私にとっても、時として「思い出したい人」なのである。津村順天堂の成功の一因は、当時、マークと広告を手掛けた画家★高畠華宵の画力が相乗効果を上げた、中将姫のイメージなのである。

 

 

・・・東大阪市大蓮東1丁目の「大蓮の石経法華塔(伝中将姫供養塔)」、また行くところが増えてしまった。

 

 

・・・私の作品は「床置き」設置ですが、ご住職のご厚意で花台に載せていただくことができました。そのことをスタッフに教えていただき、搬出後ご挨拶させていただき中之坊を後にすることができました。本当に、ありがとうございました。お疲れさまでした。