須田剋太(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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はじめに

これまで「竹内街道」については結構いろいろ書いてきましたが、あらためて「新竹内街道」として、再スタートします。これまで紹介したことと重複する内容も出てくるとは思いますが、ご容赦願います。

 

 

・・・不思議なもので、先日「病院アート」辻本病院からの帰りに「狭山池博物館」に立ち寄ったばかりなのに、またまた訪問。その理由は、

 

《平成28年度特別企画「須田剋太展」》

~司馬遼太郎『街道をゆく』挿絵原画~2016年9月15日(木)~9月27日(火)

於:府立狭山池博物館/

http://www.sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/tokuten.html

狭山池築造1400年記念事業の特別企画展。須田剋太が司馬遼太郎による『街道をゆく』の挿絵として描いた原画のうち「竹内街道」「河内みち」「奈良散歩」「堺・紀州街道」「大和・壺坂みち」など大阪・奈良の風景を題材とした作品36点(★大阪府立江之子島文化芸術創造センター所蔵)を展示します。

①竹内街道:三輪神社門前町 三輪神社 三輪神社の巨大な〆縄 三輪神社の森に古代の巫女の姿を見た 大和三山ヨリ三輪ヲ見る 竹内峠頂上路 竹内峠竹内村 竹内街道(B) 竹内街道(A)

②大和・壺坂みち:橿原市今井町街頭 今井町街頭 高松塚古墳入口 高松塚古墳付近風景

③奈良散歩:二月堂界隈 興福寺五重塔(C) 達陀行法 東大寺椿 東大寺落慶法要

④河内みち:平石峠 高貴寺奥院 慈雲尊者の書の前で大いに語る高貴寺若僧 河内弘川寺へ向かう途上葛城山をのぞむ 高貴寺庭しだれ桜 河内弘川寺西行法師円墳墓 河内観心寺楠公建てかけの塔 如意輪観音 羽曳野平野へ入る落陽 羽曳野PL教団塔 顕証寺河南町大ヶ塚 河南町大ヶ塚風景 河南町顕証寺祭り 大ヶ塚顕証寺

⑤堺・紀州街道:雨の堺市通り 紀州路の雨(堺市西湊町) 堺市民花の盛りの宴 貿易時代堺市繁栄図

 

 

《参考》府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)

550-0006大阪市西区江之子島2-1-34/06-6441-8050

http://www.enokojima-art.jp/e/?pScp003

大阪府20世紀美術コレクション、大阪府は、国内外の20世紀後半に生まれた美術作品を中心に、約7,900点に及ぶ様々な美術作品を収蔵しています。現在、美術品の管理はenocoが行っています。美術館以外にも、オフィスのエントランスなどへの貸出も積極的に行っておりますので、お気軽にお問い合わせください。コレクションを広く一般の方々に鑑賞していただくため、2005年度より大阪府立現代美術センターホームページでインターネット美術館の公開をしてまいりました。現代美術センター閉鎖にともない、現在はenocoホームページにて作品公開を継続しています。

http://www.enokojima-art.jp/i-museum/

★「インターネット美術館特別企画展」

須田剋太/挿絵原画展~「街道をゆく」シリーズ~挿絵・原画全1861点を公開

 

 

・・・直接ご指導を受けませんでしたが、ムサビに「須田先生」がおられました。

【須田寿】(1906~2005)

1906(明治39年)5月25日、東京日本橋本町に生まれる。本名門井(かどい)寿。1913(大正2)年精華小学校に入学。同校在学中に遠縁にあたる日本画家下村観山のアトリエに出入りする。19年成蹊中学校に入学し、24年同校を卒業。洋画家を志し、東京美術学校西洋画科を受験するが、不合格となり川端画学校に入学する。1926(昭和元)年、東京美術学校西洋画科に入学。長原孝太郎に師事。27年、友人の大貫松三とともに中国へ旅行し北京に二ヶ月半滞在。28年東京美術学校西洋画科和田英作教室に入る。30年第11回帝国美術院展に「裸婦」で初入選。31年、親戚の須田家の養子となる。同年第12回帝展に東京美術学校の卒業制作「髪」を出品して入選。33年第14回帝展に「三人」、34年第15回帝展に「庭園小景」を出品し、官展作家としての地歩を固める。35年松田改組に伴い設置された第二部会第1回展に「庭前」を出品。36年文展鑑査展「蔭に憩う」を出品する一方、35年に石川滋彦、井手宣通、川端実ら官展若手作家が新規な試みを行う団体として設立した立陣社の趣旨に賛同して第2回展に「秋日」を出品。この頃から人物群像を穏健な写実にもとづいて描く画風が、デフォルメ等斬新な試みを取り入れた画風に変化し、37年の文展に落選する。39年第3回新文展に「親爺と子ども」が入選し、再び官展への出品を続ける。40年、阿以田治修、大久保作次郎、佐竹徳らが創設した創元会に第一回目から出品。戦後は46年春第1回日展に「暖日」、秋の第2回展に「裸童」を出品するとともに第5回創元会展にも出品。48年5月日本橋三越で「須田寿油絵個展」を開催。49年日展のあり方に疑問を抱き、退会。また創元会からも退会し、牛島憲之、飯島一次、大貫松三、榎戸庄衛、円城寺昇、山下大五郎と立軌会を創立し、以後、同会を中心に活動を続ける。この頃、ピカソやブラックなどのキュビスムに学び、対象を簡略な形態に還元して把握する画風へ移行し、70年以上におよぶ画業のなかで、大きな節目となった。50年、東京美術学校昭和6年卒業生による六窓会を創立し、54年の同会解散まで出品を続ける。52年第1回日本国際美術展に「二人」「少女の像」「鶏を抱く少年」を出品。54年9月、初めて渡欧し、フランス、イタリア、スペイン等を巡って西洋の古代美術に打たれる。帰国後、渡欧中で印象に残った異国の生活の風景、特に人と家畜のいる光景を描くようになり、牛が主要なモティーフとなる。63年、北九州の装飾古墳を見学して感銘を受け、古墳をモティーフとして描く。65年3月★武蔵野美術大学造形学部教授となる。71年再渡欧。72年5月に3度目の渡欧。73年3月ギリシャ方面を旅行し、ギリシャ古典文明を探求。7月東京セントラルサロンで須田寿個展を開催。76年、須田寿教授作品展(武蔵野美術大学美術資料図書館)を自選作品により開催。77年11月須田寿自選展を東京セントラル美術館で開催。78年武蔵野美術大学を退職し、同学名誉教授となる。79年より立軌会のほかに日本秀作美術展、世田谷美術展に出品を続けたほか、日本橋高島屋、日動サロンほかで個展を開催する。82年「須田寿画集」(日本経済新聞社)を刊行、同年第6回長谷川仁記念賞受賞。85年第7回日本秀作美術展に「家族」を出品し、同年、この作品により芸術選奨文部大臣賞受賞。1993(平成5)年4月世田谷美術館で「須田寿展」が開催され、年譜、参考文献は同展図録に詳しい。2001年中村彝賞受賞。官展作家として活躍したアカデミックな画風から、立軌会創立後、再現描写にとらわれない内省的思索を絵画化する作品へと移行し、暗褐色、暗緑色を基調とする色数を限った色調と独自のマチエールを特色とする作品を制作し続けた。2005年1月24日午前、1時35分、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年98。

 

 

・・・この犬、森山大道さんの犬に近い雰囲気がありますねえ。大学時代、竹橋の近代美術館で感銘を受けた「須田さん」の作品です。

【須田国太郎】(1891~1961)

明治24年6月6日京都市中京区に、麻商彦太郎の次男として生れた。第三高等学校を経て京都帝国大学文学部哲学科に入学、美学美術史を専攻し、大正5年6月卒業した。のち関西美術院に入って洋画を学んだ。大正8年インドを経由してヨーロッパに留学、主としてスペインに滞在し、ヴェネツィア派やスペインの大家の作品を模写、研究して大正12年帰国した。昭和8年以来、京都帝国大学文学部、京都市立美術大学、京都工芸繊維大学、京都学芸大学などで美術史を講じ或いは実技を指導した。昭和31年から翌年にわたって京都市立美術大学の学長代理をつとめた。のち同校名誉教授に推された。また昭和9年には招かれて独立美術協会会員となり、毎年作品を発表し、同22年には日本芸術院会員を命ぜられた。同32年12月から京大病院に入院したが、病床でも筆を捨てず、毎年の独立展に出品した。その作風は、西欧的な画風から次第に東洋的な画風へ移り、褐色を主調とする渋い独自の色調の中に深い精神性をひそめている。そのデッサン力の秀抜さは、現代稀に見るものがあった。代表作には「法観寺塔婆」「唐招提寺礼堂」「歩む鷲」「海亀」「冬」「真名鶴」「フクロウ」などがあり、著作に「グレコ」(アトリエ社、西洋美術文庫)、「ゴヤ」(美術出版社)、「南方バロック」(みすず書房)などの単行図書のほか、諸誌に載せた論文、随想はきわめて多い。1961年12月16日、長い間の肝硬変により肝性こん睡のため京都大学病院で逝去した、享年70歳。

 

 

・・・そして三人目の「須田さん」は、やはり司馬遼太郎さんとの関係で知ることになりました。

【須田剋太】(1906~1990)

1906年(明治39年)5月1日埼玉県吹上町に生まれる。熊谷中学卒。本名は勝三郎。1939年(昭和14年)文展初出品の「読書する男」が特選となる。後、「神将」「ピンクのターバン」で特選を重ねる。1940年(昭和15年)光風会会員となる。1947年(昭和22年)日展で特選。後、計3回特選。1949年(昭和24年)国画会会員となる。戦後、長谷川三郎氏と出会い、抽象絵画に転じる。幼児のような無垢の精神で、超現実的な世界の根源と魂のありようを描き、奔放で力づよい画風を確立した。週間朝日司馬遼太郎「街道をゆく」の挿絵を描く。西宮市芸術文化協会代表運営委員。西宮美術協会代表。

《NEWS》産経WEST「審美眼を磨く」(正木利和)より

須田剋太という画家の絵の良さは、ある程度の年齢を重ねなければわからないのではないか、と思う。彼は作家、司馬遼太郎の『街道をゆく』という紀行文の挿絵を描いた。そのなかで愛すべき奇行の画家としても紹介されている。端正という言葉からはほど遠いごつごつと荒々しい線。にごったような複雑な色彩。ときにはコラージュも使う自由奔放さ。画家、須田剋太の印象で思いつくのは、その3点だ。彼が描いたものは、不思議な「生命力」を宿しているように思う。それは、たとえ「仏画」であっても例外ではない。しばらく前に、あるギャラリーで剋太の描いた観音像を見たとき、迷いなく、しっかりと立っているなあ、と感心したことがある。そう、剋太の絵をみていると、元気になれる。ある程度の年齢がいかなければ彼の絵がわからない、というのは、きっとこのあたりに理由がありそうな気がするのだ。年を重ね、次第に無理が利かなくなっていく身体。「老い」が身にしみるようになってくると、力強い絵が恋しくなる。富岡鉄斎がそうであったように、剋太もまた老いてなお生きてゆくエネルギーを発散するような絵を描いた。剋太の絵が、無性にほしくなった。部屋に飾って、ひとりじっと見詰めていたくなった。ところが、あの観音像は、逡巡している間にギャラリーから消えてしまっていたのだった。「モノ」には、確かに「足」がある、と学んだのはこのときだ。恋い焦がれた剋太の仏画は、その後、いくつか自分のメガネにかなったものがあったのだが、先立つものとの折り合いやらなんやらで結局、手元にくることはなかった。ところが、先日、美術品の入札カタログを見ていると、未装の剋太作品がいくつか出ていたのである。風景画に花、干支の動物たちをユーモラスに描いたものもあった。けれども、やっぱり剋太は人物だ。と、肉感的な美女に目が留まってしまった。そう、「留まってしまった」、というほかないのである。78歳の剋太が描いた彼女は、とても意志の強そうな顔をした「裸婦」だった。最終日にギャラリーを訪ね、実物を見せてもらった。こうなっては、もう引くに引けない。というより、あきらめきれない。だが、入札である。いくら入れれば手に入るのか、だれもわからないのだ。最後の最後まで頭を悩ませ、自分の納得のいく額を書いて、店員に手渡した。発表から数日後、そのギャラリーの応接室に現金を持って行った。そのとき、いじましいもので「少し乗せすぎたかな」と思った。「剋太のコレクターからまとまって出てきたんですよ。剋太は墨書した字もいいでしょう?また、気になる作品があるようならご連絡ください」対応した係員の言葉も、耳を通りすぎる。しかし、その乗せた分の「誠意」で「彼女」がなびいたのだ、と思うことにした。かくして、その「裸婦」はやってきた。自分の部屋にかかっている小林和作の「秋の山」の絵をはずし、額装を施した剋太を掛けてみた。「いい絵ね」と、家人が言った。確かに。目を移してみる。そうか、そういえば、もう一枚飾っている絵も伊藤清永の「裸婦」だった。しばらく、男の夢、蕩児(とうじ)になった気分を味わった。しかし、夢がさめると、そんな遊びを大目に見てくれる人を、ありがたく思った。

 

《参考》喫茶「美術館」

577-0805東大阪市宝持1-2-18和寧文化社/06-6725-0430

http://www.waneibunkasha.com/index.html

東大阪の片隅の路地裏にて、ゆったりとした時間と空間を憩いと出逢いのひとときをお一人で、また大切な方々と語らいや読書のために「喫茶美術館」は在ります。美術館として、巨匠画家(洋画・書)須田剋太(約50作品)と民藝陶芸家(人間国宝)島岡達三の作品世界(食器など)の用の美をおたのしみください。

 

・・・立ち寄るたびに「休業」で、まだ一度も中に入っていないのです。きっと、必ずそのうちに。