街角ミュージアム(71) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「生玉公園」が途中だったのに、「四天王寺さん」の報告を先にしてしまいました。再び「生玉公園」にもどります。

 

 

《生玉公園》

生国魂神社の南から南西にかけての公園で、着工は1940年(昭和15)5月、開園は1942年(昭和17)5月です。公園は上町台地の上と斜面を利用していて、上町台地の下側(松屋町筋)にも入り口があります。階段を上がると、コンクリートの壁が見えます。ただのコンクリート擁壁に見えますが、これは防空壕の入り口を塞いだものです。説明板によると★「都市防空壕」として大阪市により設置されたそうです。しかも当時一般では入手できなかった資材を利用して建設された特別防空壕で、戦争末期には陸軍の通信施設として使われ、いよいよの時には司令部をここに置くつもりだったといわれます。また建設には朝鮮人が徴用されました。防空壕の中を見ることはできませんが、内部は2階建てで、アーチ状の無筋コンクリート製、本体は幅約9m×高さ約6.5m×長さ約24mで、1階部分の床面積203m2、2階部分は現存せず、と解説されています。

 

 

・・・再び「いくたまさん」までもどってきました。「地図」を調べてみると、ここは「真言坂」「源聖寺坂」に象徴される上町台地そのもの、「防空壕」にうってつけの場所なのです。

 

 

《源聖寺坂》

http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000000509.html

この坂は登り口に「源聖寺」があるので、その名を取っている。付近一帯は、寺町として長い歴史を持つ。「齢延寺」には、幕末に★泊園書院を興して活躍した藤沢東畡・同南岳父子の墓があり、「銀山寺」には、★近松門左衛門の「心中宵庚申」にでてくるお千代、半兵衛の比翼塚が建てられている。

登り口から東に10mほどの石畳は、昭和44年に廃止された★大阪市電の敷石が転用されています。

 

 

《参考》天王寺七坂

https://www.ueroku-wake.net/special/nanasaka/

谷町九丁目から天王寺までの谷町筋の西側に分布する七か所の坂道です。 現在、幹線道路となっている逢阪を除けば、車が通れない細い石畳と石段で、両脇の壁や石垣との組み合わせが美しく、スケッチや写真撮影のポイントともなっています。 北から真言坂、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂の順に並んでおり、それぞれに名前の由来があります。

 

・・・そして、「学園坂」もあります。

http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000220397.html

松屋町筋・下寺町から谷町筋・六万体へと通る坂。道沿いに★大阪女子学園(現在大阪夕陽丘学園)ができて学園坂とよばれるようになり、天王寺七坂からは外れているが、自動車道路となっており多くの人が利用する坂である。

 

 

《大阪女子学園(現在大阪夕陽丘学園)》

543-0073大阪市天王寺区生玉寺町7-72/06-6771-9510

http://www.oyg.ed.jp/index.html

1939年(昭和14) 株式会社★「大丸」元社長・故里見純吉の発意にもとづき、大丸洋裁研究所を堺に設立。

1942年(昭和17)大阪市天王寺区(現在地)に移転。大丸洋裁学校、のちに大阪家政学園と改称し、高女卒業者を対象とする。

1943年(昭和18)戦時の要請により、保健婦養成施設の指定を受ける。大阪女子厚生学園と改称。

1950年(昭和25)高等学校を大阪女子学園高等学校と改称。大阪女子厚生学園厚生部・文化部を廃し、大阪女子学園短期大学を設立。

2005年(平成17)学校法人大阪夕陽丘学園、大阪夕陽丘学園短期大学、大阪夕陽丘学園高等学校と改称。男女共学化(一部)。

 

・・・「源聖寺坂」を掲載したのですから、「源聖寺」も紹介しておかなくてはなりませんね。