・・・大阪市「細工谷」界隈、「聖バルナバ病院」「赤十字病院」をしておきながら、「桃山病院」を紹介できなかったことが気になっていました。そして、ようやくその痕跡を発見しました。
《大阪市立桃山病院》
明治20年に開設された桃山病院は、市制発足(明治22年4月1日)と同時に大阪市立桃山病院と改称された。この病院は古来から最も恐れられていた伝染病に近代医学のスポットをあて、その治療と研究を推進することによって、以来、それら治療・研究の拠点として近代大阪に不滅の足跡を残しました。現在わが国で伝染病を専門とするのはこの病院のみで、その歴史は百数十年におよびます。現在は、OSAKAフォレストスクエアというマンション群になっています。以前院内で明治大正期に使用されていた顕微鏡や滅菌器、ペスト防護眼鏡、あるいは古い写真などが展示されていました。
大阪市制100周年記念事業の一環として採り上げられた、「市立医療機関の体系的整備」の基幹となる、市民の医療ニーズの高度化・多様化に対応するための大阪市の中核病院として、広く市民に急性期医療および小児医療を提供している病院で、大阪市立母子センター・大阪市立小児保健センター★大阪市立桃山病院・大阪市立城北市民病院・大阪市立桃山市民病院の5つの市民病院を再編し、大規模・高機能の病院として都島区に大阪市立総合医療センターが新設されました。開院したのは1993年(平成5)12月でした。
《参考》淺沼組
556-0017大阪市浪速区湊町1-2-3マルイト難波ビル/06-6585-5500
http://www.asanuma.co.jp/index.html
《参考》筆ヶ崎地区
http://www.city.osaka.lg.jp/toshikeikaku/page/0000005057.html
当地区は、天王寺区筆ヶ崎町、細工谷1丁目の一部、堂ヶ芝2丁目の一部からなりJR大阪環状線の内側に位置し、上六や鶴橋のターミナルに近く交通至便であると共に、早くから開けた大阪の都心地域の一角として職住近接の好立地にある。★桃山病院の跡地や大阪赤十字病院の高度利用化に伴う空地などの大規模敷地において再整備の動きがあるほか、昭和20年代に建設された府営住宅においても建替が検討されている。
【昭和12年5月7日本院創立50周年記】
・・・すべてを読み取ることは難しいのですが、桃山病院50周年にあたり「殉職者慰霊祭」を執り行い、碑を建立したとのことです。
《参考》大阪市市民病院の移り変わり/文:木村正樹
○桃山病院
大阪市制が発足したのは、明治22年であり、それに先立つ2年前の明治20年桃山病院の前身である病院が当時の東成郡天王寺村筆ヶ崎に建設された。「明治時代の歴史のなかで、伝染病の流行ほど悲惨なものはなかった。医術がいまだ幼稚な上に衛生思想も普及しておらず、一旦病気蔓延ともなれば、おびただしい死者をだした。これに対して明治20年天王寺筆ヶ崎に、桃山病院の前身である病院が開設されたが、これこそ衛生事業を近代行政がとりあげた最初であった。」(後略)昭和43年 発行大阪市衛生事業史―より―。とある。明治22年4月1日大阪市制が発足、市立桃山病院となった。市民病院に限定せず大阪市立病院というならばこれがもっとも古い市立病院である。桃山病院については昭和62年発行の大阪市立桃山病院100年史に詳しく書かれている。
◎地震と火災の恐怖
大正12年9月の関東大震災は、大正13年の就任間もない当時38才の青年院長をして、「桃山病院を眺めた時は身の毛のよだつ思いをした。貧弱な木造病棟に足腰立たぬ重症患者がひしめき満室であった。一朝失火せば必ず多数の死焼者を出す事は間違いない……風の強い夜はおちおち眠られぬ事もあった。」とある。今も昔も地震・火災は恐ろしいものである。
◎金の工面
桃山病院改築案は、木造建物を廃し、鉄筋コンクリート5階建の近代伝染病院を建設するものであった。総工事費350万円。しかし、この計画は支出費用のすべてを市費に依存する案であったから、財政当局から「金がない」の一喝で退けられ、全体計画を2期に分割施行、病院構内の不用敷地の売却、一時借入、有料病室の設置等の計画見直しが行われている。いつの時代も金の工面は大変である。
◎ 伝染病院の恐怖
「市民が桃山病院を恐れる事は極度で、入院は極力拒否され隠蔽された。病院の門前を通る市民は口鼻を小袖でふさぎ小走りで通った程、市民から恐れられた。病院に入院したら赤い薬(赤葡萄酒のこと)を呑まされて殺されるから、絶対呑むなとの評判があり、現実に水薬は流しにながし、薬包は捨てれば見付かるから退院時布団の下から沢山見付かった」。当時の人達にとっては桃山病院に入院することは本当に恐ろしいことであったにちがいない。
・・・「伝染病」に対する差別や偏見、知らないことによる悲しい歴史です。多くの殉職者の方々への鎮魂とともに、しっかり心に刻んでおきたいものです。
《大阪市立環境科学研究所》
543-0026大阪市天王寺区東上町8-34/06-6771-8331
http://www.city.osaka.lg.jp/shisei_top/category/893-33-4-0-0.html
市民の生活環境の保全を図り、健康の保持・増進及び公衆衛生の向上に寄与することを目的とした総合的な研究・検査機関であり、市民の疾病予防や食生活の向上を図り、環境問題の究明、防除技術の開発を図るなど、大阪市行政の一翼を科学的裏付けの面で担っております。主な業務としては、(1)調査・研究、(2)試験・検査、(3)研修・指導、(4)情報の解析及び提供であり、市民の皆様からの依頼にも応じるとともに、本市関係行政部局と密接な連携を保ちながら業務を行っております。また、近年ますます複雑・高度化する大都市行政において流動する社会の要請に応えるため、保健・衛生部門、環境部門を問わず、常に研究所としての立場で先駆的かつ創造的研究課題に取り組んでおります。さらに、「開かれた研究所」を実現するために、講座・教室等の開催及び支援により、市民参加を図り、他の研究機関・大学・産業界とも連携を図っております。
●図書室/本所の前身である衛生試験所時代から現在にいたるまで調査・研究用に収集された資料を所蔵しています。環境科学・疫学等の学術雑誌のほか、特徴的な資料として全国の地方衛生研究所の年報類や調査研究報告書があります。単行書はほとんどが各課に分置されており、図書室には基本的な参考図書を備えています。また、閲覧席が16席用意されており、一般市民の方も連絡した上で図書室を利用することができます。
《大阪市中央授産場》
543-0026大阪市天王寺区東上町4-17/06-6772-4771
http://chuuju.sub.jp/index.html
利用者が自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう、就労の機会を提供するとともに、生産活動その他の活動の機会を通じて、その知識及び能力の向上のために必要な職業指導を行います。また、「その人らしく豊かで自立した生活」が過せるように支援します。
《鶯の丘》
・・・この碑もまた詳細不明、郷愁をそそる一品です。何かのきっかけで展開するかもしれませんので、記憶と記録にとどめておきたいと思います。
《参考》つどいのひろば「おひさまサンサン広場」がオープン
543-0032天王寺区細工谷1-1-5 (大阪府助産師会館2階)070-5147-2200
http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000348768.html
妊娠中や子育て中のご家族が、立ち寄り、集まり、情報を得る・交換する・楽しむ・安心するなど、心があったかくなる場を目指して開設しました。授乳スペースや昼食スペースや遊具もあり、気分を変えてゆっくり&じっくり過ごしてもOK。通りがかりで授乳やおむつ交換だけに利用してもOK!です。妊娠や出産のこと、子育てのこと、私(ママ)のこと・・・悩みについて、助産師や保育士、子育て経験を持つスタッフが相談に応じます。お気軽にお越しください。
・・・偶然「おひさまサンサン広場」の案内地図を見ていて、近くに「桃陽小学校」があることに気が付きました。昔、この辺りには大きな「桃畑」があり、「鶯」もたくさん飛来したのでしょう。
http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000343262.html
桃陽地域は、天王寺区の中央部の東よりに位置し、東側は生野区に面しています。
明治時代まで区内には大きな桃畑があり、今日においても桃陽、桃谷、桃丘、桃山などの名が残っています。区域変更のとき「桃」の字をどうしても残したい地域があり、検討の末、陽が昇る東側を「桃陽」とし、小高い丘があるところを「桃丘」としたという説もあります。