《ル・コルビュジェ》
http://www.fondationlecorbusier.fr/
ル・コルビュジエは主にフランスで活躍した建築家で、近代建築三大巨匠と呼ばれ、「住宅は住むための機械である(Machine a habiter)」という思想のもと、鉄筋コンクリートを使った建築作品を数多く作り、今ではその多くが歴史的建造物として保護されています。過去に2度世界遺産に推薦されていながら見送られていた彼の建築作品が、2016年の世界遺産として7月17日に登録されました。7カ国17作品(上野★国立西洋美術館を含む)の建物が登録されました。フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」として位置づけられる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とみなすこともある)。
【坂倉準三】
http://www.sakakura.co.jp/info/company/junzo-sakakura/
坂倉準三は1901年(明治34)に岐阜県羽島郡の造酒屋に生まれました。旧制第一高等学校文科から東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、在学中に建築を志すようになった坂倉は、当時注目を集めていた近代建築の旗手★ル・コルビュジェに師事する意思を固めました。1929年に渡仏、ル・コルビュジェの勧めで専門学校にて基礎を修めたのち、1931年から1936年までアトリエの重要なスタッフとして都市計画や住宅設計に携わりました。1936年に帰国後、パリ万国博覧会日本館・設計監理のため再渡仏、1937年に建築部門のグランプリを受賞して一躍、世界的評価を受けることとなります。1940年に坂倉建築事務所を設立、その後1969年に68歳で亡くなるまでの間に約300もの実作を残しました。戦時中の組立建築、1950年から晩年まで難波、渋谷、新宿で手がけた都市ターミナル、1951年の神奈川県立近代美術館と東京日仏学院をはじめとする建築作品、さらには伝統とモダンの融合した住宅や家具など多岐にわたる仕事を通じて人間のためのデザインを追求し続けました。また、シャルロット・ぺリアンと協働した1941年の「選択・伝統・創造」展(東京・大阪高島屋)にはじまり、1957年・1960年のミラノ・トリエンナーレ日本室展示、さらに1957年に設立されたグッドデザイン制度の初代選定委員長を務めるなど、戦後日本のデザイン界に多大な影響を与えました。
《伊賀市南庁舎(旧上野市庁舎)、伊賀市北庁舎(旧三重県上野総合庁舎)伊賀市中央公民館(旧上野市公民館)の保存活用に関する要望書》
DOCOMOMO Japan 代表・鈴木博之(青山学院大学教授、東京大学名誉教授)
拝啓、時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。本会は、20 世紀の建築遺産の価値を認め、その保存を訴えることを目的のひとつとする、世界54 カ国が加盟している近代建築の非政府国際組織DOCOMOMO(=Documentation andConservation of buildings, sites and neighborhoods of Modern Movement: モダン・ムーブメントに関わる建物と環境形成の記録調査および保存の為の組織)の日本支部です。
このたび、貴市では南庁舎(旧上野市庁舎)、北庁舎(旧三重県上野総合庁舎)、中央公民館(旧上野市公民館)を含む庁舎の建替え計画を「市庁舎建設検討委員会」で検討されていると聞き及んでおります。
ご承知の様に、伊賀市南庁舎(1964 年)、伊賀北庁舎(1963 年)、伊賀市中央公民館(1960 年)は、我が国の近代建築を戦前、戦後にわたって長く主導してきた建築家の一人である坂倉凖三(1901~1969)が設計を手がけた重要な作品であります。
戦後に大きく開花した日本近代建築の実例としての先駆性や、戦後民主主義を背景とする新しい設計思想を、一人の建築家が複数の建築群を一体とした空間構成のシティーセンターとして国際的な水準で創造した、我が国でも例の少ない歴史的な意味を有しております。本会は、こうした文化的、歴史的価値を併せ持つこれらの建築群について、その保存活用を強く要望致します。
この建物の歴史的価値は、次のようにまとめることが出来ます。
1. 坂倉凖三の設計による代表的作品であること
建築家・坂倉凖三は、大戦間の 1929 年、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業後渡仏し、20世紀を代表する近代建築の巨匠であるル・コルビュジエ(1887~1965 年)のアトリエで研鑽しました。1936 年一時帰国しますが、折しも開かれたパリ万国博覧会(1937 年)日本館設計の為に1936 年再渡仏し、コルビュジエのアトリエで日本館の設計をまとめ、パリ万国博覧会の建築部門で、フィンランドのアアルト、スペインのセルトと並んで見事にグランプリを受賞しました。
1939 年帰国し、坂倉建築事務所を設立し、1969 年に亡くなるまで、日本の現代建築、デザインに大きな貢献をし、戦後の我が国を代表する多くの軽快で、清々しいモダニズム建築を手がけた建築家です。
その作品に対して、4 度の建築学会賞をはじめとして、多くの建築賞を受賞しています。
(国際文化会館/1955 年、羽島市庁舎/1959 年、新宿西口広場/1966 年、大阪府野外活動センター/1967 年)
さらに日本建築家協会会長や、戦後初の世界的なデザイン会議である「世界デザイン会議」を1961 年東京で開催し、その実行委員長を務めるなど社会的文化的な活動も幅広く行いました。
伊賀市南庁舎(旧上野市庁舎)、伊賀市北庁舎(旧三重県上野総合庁舎)、伊賀市中央公民館(旧上野市公民館)は、坂倉凖三が手がけた庁舎建築のなかでも最も素直な形で近代主義的なデザインが試みられている建築と考えられます。我が国が当時置かれていた経済状態を真摯に受け止め、驚くほどの低コストで、明快で魅力的な庁舎建築を実現しています。更に特質すべきは、この建築が都市的、景観計画的に十分検討された上で設計されていることです。先ほど貴市で開催された「坂倉凖三展・伊賀上野」で展示されていた、緑濃い上野城城山と対比した水平線を強調した建築群の連続した全体立面図を見れば、これらの建築群が風景の中で互いの特徴を生かしながらデザインされている事がよく分かり、坂倉が展開している都市と建築の複合の良き例と考えられます。
現在でこそ、敷地を超えた環境的デザインが最も新しい建築のデザイン手法となっていますが、貴市の庁舎群で展開された坂倉凖三の建築デザイン手法はその先駆的方法を獲得し、世界的な近代建築のテーマであった思想が明確に表現された建築遺産であることと考えられます。
2.周辺環境と調和した、地域のすぐれた原風景であること
伊賀市南庁舎(旧上野市庁舎)を中心とした伊賀市北庁舎(旧三重県上野分庁舎),伊賀市中央公民館(旧上野市公民館)、伊賀市立西小学校体育館,上野公園レストハウスなど坂倉凖三の建築がオリジナルのまま現存し、丁寧に活用されています。
坂倉凖三設計の建築は様々な都市に存在しますが、これ程集積し、群として構成され風景を形成している事例は、伊賀市以外に存在しません。これらの建築群は1964 年から6 年間に及ぶ長い期間をかけて貴市との強い信頼感に支えられ設計、建設されましたものと考えられますが、坂倉は当初から貴市の室町、江戸期から伝わる文化的背景を活かしながら、城山を背景とした全体の対比と調和を慎重に検討し、これらの建築群をデザインしたと思われます。
特に南庁舎は城山に向かう斜面に沿う様な細長い敷地に立てられ、そのレベル差を上手く生かしたデザインがされています。市民課等の市民が良く利用する部分は敷地の南側の階高が高い部分に配置し、実に5.59m の天井高で、将来の変化に対する可変性をも確保しています。一方北側部分には、標準的な階高部分の機能空間を配置し、3 階部分に南北全体を繋ぐ床を架け、水平線を強調したデザインを展開して城山の風景と対比させながら、地域のシンボルとして中心的な景観を形成しているものと考えられます。
以上のことから、伊賀市南庁舎をはじめとする、北庁舎、中央公民館の建築群は、貴市に取って重要な建築であると同時に、戦後の我が国を代表する貴重な建築文化遺産であります。また、日本建築家協会(JIA)が「長く地域の環境に貢献し、風雪に耐えて美しく維持され、社会に対し建築の意義を語りかけてきた建築物」を対象とする「JIA25 年賞」の東海支部奨励賞を受賞した様に、地域の風景を形成する重要な景観資産であると考えられます。報道によれば、市庁舎建設検討委員会で近々、これらの現存する建築群の存続に対し一定の結論をまとめられる事とされています。長く貴市の重要な建築物として存在し、かつ良好な景観を形成してきたこれらの建築群に対し、耐震性や、設備の更新等の課題を優れた技術的な検討で解決し、保存活用の方途を見出し、このかけがえのない建築群を、その周辺環境と共に後世へ継承されますよう、格別のご配慮を賜りたく、ここにお願い申し上げます。
なお、本会は、この建物群の保存・活用について出来る限りのご協力をさせていただく所存であることを申し添えます。 敬具
・・・本当に素晴らしい建物でした。案内してくださった滝井さん、市職員の方に感謝申し上げます。