続大学ミュージアム(71) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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【近松門左衛門】

http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/chikamatu/055monzaemon.html

近松は1706年の春、永年住み慣れた京都から大阪に移り住み、大阪の船問屋・尼崎屋吉右衛門宅にたびたび逗留していました。 船頭や行商人、旅人たちから全国各地の話を聞き集め、それを題材として作品を執筆していたと伝えられています。その船問屋が、尼崎市の久々知にある広済寺を1714年に再興した住職・日昌上人の実家と言われています。日昌上人と近松は親しく交際していたことから、広済寺の再興には建立本願人となって大きく貢献します。1716年9月に近松の母親が亡くなったときも、広済寺で法要を行い、供養のために色紙などを納めています。この寺とのつながりが深かった様子が伺えます。このように、近松と尼崎とのかかわりは、晩年の十数年間と思われます。1724年11月22日、72歳で生涯を終え、広済寺の墓(国指定史跡)で眠っています。

 

 

《近松公園》

661-0977兵庫県尼崎市久々知1丁目4

http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/map/institution/05_032.html

近松門左衛門の墓所(広済寺)に隣接した回遊式日本庭園風の公園です。 公園内には、近松門左衛門のブロンズ像があり、数多くの名作を残した近松門左衛門をしのぶことができます。また、せせらぎや池を中心に園内を散策でき、春先からは満開の梅林や桜が楽しめるため、お花見の人でにぎわいます。

 

 

《近松記念館》

661-0977兵庫県尼崎市久々知1丁目4-38/06-6491-7555

http://hccweb5.bai.ne.jp/tikamatukinenkan/

近松門左衛門の過去帳や近松が使用したと伝えられる文机など、およそ100点のゆかりの品々が、近松の出生から尼崎とのかかわりなど歴史順に展示している。隣接する広済寺には国指定史跡「近松の墓」がある。周囲は近松公園になっており、池やせせらぎなどを配した回遊式の日本庭園で四季折々の風情が楽しめる。

 

 

《広済寺》

661-0977兵庫県尼崎市久々知1丁目3-27/06-6491-0815

http://www.kosaiji.org/index.htm

日蓮宗の寺。957年(天徳元)多田満仲が妙見菩薩を祀ったことに始まるとされ、のちに1714年(正徳4)日昌上人が荒れていた寺を再興した。東洋のシェークスピアと称される近松門左衛門は、広済寺とゆかりが深く、その再興に尽力したと伝えられている。晩年には、執筆活動のためしばしばこの寺を訪れ、「近松部屋」に逗留していた。境内、本堂脇には国指定史跡である近松門左衛門の墓石があり、芸能関係者などがしばしば訪れる。また、隣接して近松門左衛門資料などが展示されている「近松記念館」もある。

 

 

・・・大阪の墓、尼崎の墓どちらも大切にしていくべき、チカマツゆかりの「史蹟」です。

 

 

《久々知須佐男神社》

661-0977兵庫県尼崎市久々知1丁目3-28

http://www.ama-jinja.org/26-kukuchi.html

当神社は、鎌倉時代の創建で、天徳元年(957)村上天皇の御宇、源氏棟梁贈正一位源満仲公の勧請により建立された。 須佐男命(牛頭天王)、諏訪大明神、末社愛宕大権現、八幡大明神の鎮守神として天暦九年(955)に奉祀されている。 本殿・幣殿・拝殿は元和二年(1616)に再建されたが、昭和60年5月「昭和の大修復」がなされ、現在に至る。宝暦年間に奉納された絵馬「鯉図」(法眼月岡雪鼎画)等、絵馬が多数所蔵されている。史跡として、境内に源満仲公が多田(現川西市)に向って矢を射るのに足をかけた「矢文石」がある。

「久々知」は、杣山の管理にあたった古代氏族・久々智氏の居住地であったことに由来するという説があり、猪名川または武庫川の舟運により上流で切り出された木材が運ばれ、この地域で集積・加工された可能性がある。史料上の初見は1191年(建久2)「観福寺大般若経奥書」(『尼崎市史』第4巻)で久々智村とある。橘御園の荘域に属したほか、下坂部荘に属したとされている。南北朝~戦国時代の争乱に際して、諸将がしばしば陣を構えた。