《誉田史跡公園(薄田隼人正兼相の墓)》
583-0857羽曳野市誉田7-679
元和元年(1615)、大坂夏の陣の際、徳川家康らの軍勢が攻める大坂城で、秀頼とその母、淀殿は自害し豊臣氏は滅びました。このとき、誉田、藤井寺市道明寺付近一帯は、大坂城をうかがう徳川方と、それをはばむ豊臣方とが激しく戦う★「道明寺合戦」の舞台となりました。秀頼に仕える薄田隼人正兼相は誉田八幡宮付近の★誉田林に陣をかまえていましたが、奮戦の末に討ち死してしまいました。しかし、不利な状況の中で、その勇ましい戦いぶりは長く天下に名を残すことになりました。明治の初め、隼人の子孫・薄田兼郎さんが古戦場を精査し、この地を隼人の戦死した場所と断定、1885年(明治18)隼人の子孫に当たる広島藩主浅野家一族によって建立され、1997年(平成8)羽曳野市に寄贈、誉田史跡公園としてその墓と供養塔を中心に整備をおこなったものです。
《誉田林古戦場跡》
583-0857羽曳野市誉田3-2-8誉田八幡宮内
http://www.city.habikino.lg.jp/10kakuka/45kanko/sanadamaru.html
大和路から大阪城に向かう徳川軍35,000を豊臣軍が迎え撃った戦い。豊臣軍は寄せ集めの軍勢であったため緊密な連絡を取ることができず、単独での進軍を繰り返し徳川軍により各個撃破された。味方の到着が遅れているという情報を受け取ることができなかった後藤基次(後藤又兵衛)は夜明けとともに2,800の兵を率いて、20,000以上の伊達政宗、松平忠明らが率いる徳川軍を相手に単独で小松山に進軍、8時間もの激闘の末に討死した。後藤基次が討死した頃に薄田隼人正兼相、明石全登、山川賢信らも道明寺に到着して各自奮闘したが、薄田隼人正兼相は討死、残余の部隊は誉田村(誉田八幡宮付近)まで後退した。更に遅れて到着した真田幸村、毛利勝永らの部隊は後退してきた残余部隊を収容、毛利隊は葛井寺(藤井寺)に布陣、真田隊は誉田村付近に着陣して伊達軍の先鋒の片倉重長の部隊と交戦した。真田隊は伊達勢を道明寺辺りまで押し返した後に葛井寺まで後退し毛利勢と合流、豊臣軍は葛井寺から誉田の西にかけて布陣し、対する徳川軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、両軍にらみ合いの状態になったとされる。
・・・天王寺区「増福寺」にも、薄田隼人さんのお墓があります。
《増福寺》
543-0073大阪市天王寺区生玉寺町5-24/06-6772-5734
http://www1a.biglobe.ne.jp/zoufukuji-osaka/
創建開山は、1602年(慶長7)良誉上人冥託大和尚。現在、2016年(平成28)第二十九世榮誉隆春まで414年続くお寺です。山門は創建当時からの門ですが、本堂は247年前の1768年(明和5)惜しくも失火で焼失し歴代住職の第八世運誉上人と第十世遠誉上人が浄財を募り、5年の歳月をかけて当時檀信徒の皆様のご協力で1773年(安永2)に再建されたのが現在の本堂です。当寺は、江戸時代より浪速出版会に功績のあった檀家さまが多く、大阪における★「本屋の寺」ともいえる歴史を有しています。
天王寺に有るお墓は、6代目の子孫・薄田兼実によって、1814年(文化11)200年忌に建立されたものです。羽曳野の方は、1885年(明治18)子孫にあたる広島藩主浅野氏の一族によって建立され、1996年(平成8)に市の有形文化財に指定されています。本能寺の変で信長の小姓として仕え、討死した人物に薄田景宗さんと云う人がいます。薄田兼相は孫にあたり、弟の薄田文右衛門は、その縁で浅野家に召抱えられ、大坂の陣後に、一時浅野姓に改姓しており、明治期の浅野氏当主・浅野長勲の縁戚のようです。
・・・お隣の藤井寺市には、
《大坂夏の陣・道明寺合戦記念碑》
583-0012藤井寺市道明寺3-1-55近鉄「道明寺駅」横
http://www.city.fujiidera.lg.jp/kanko/spot/kankospotall/1459310119036.html
http://www.fujiidera-kanko.info/volunteer/modelkosu9.html
大坂夏の陣・道明寺合戦は、1615年(慶長20)5月6日、午前4時「小松山の戦い」に始まって、午後4時★「誉田の戦い」が終わるまでの12時間の戦いのことです。石川をはさんで、東側の「玉手山古墳群」と西側の「古市古墳群」は、徳川方の東軍と豊臣方の西軍の布陣に利用され、この周辺で激戦が行われました。1615年(慶長20)5月5日、東軍は、徳川家康・秀忠約12万の本隊を京から東高野街道を南へ進め、奈良、法隆寺方面から亀の瀬、関屋峠を超えてくる伊達隊ら約3万5千の別働隊と道明寺方面で合流。平野、住吉方面から大坂城に攻め上がろうとする作戦をとりました。豊臣方は総勢5万5千。大坂城はすでに濠を埋められており、そのまま攻められれば防ぐ方法もなく、勝利は難しいと判断。 そこで、東軍が道明寺で合流する前に、別動隊が進軍する大和口の山地の狭い場で機先を制して各個撃破することを決めました。そして、真田幸村や後藤又兵衛など1万8千の隊は、5月6日早暁、道明寺でおちあうことを約束。後藤隊は予定通り道明寺へと軍を進めたのですが・・・。
・・・「土師ノ里駅」前には、
http://www.city.fujiidera.lg.jp/shisei/shisakukeikaku/toshikeikaku/index.html
藤井寺市では、土師ノ里・道明寺地区において「安全に歩いて回れる歴史空間の創出」を目標に、平成20年度から24年度の5年間で、国の交付金を活用した都市再生整備計画事業を進めてきました。土師ノ里駅横オープンスペースには、様々な掲示があります。