【杭全神社夏祭り】 (7/11~14)
別名「平野だんじり祭」や「平野郷夏祭り」とも呼ばれています。また、杭全神社夏祭りは300年以上の歴史を持ち、スサノオノミコトを御祭神とする祇園社の祭りで、旧平野郷にあたり古く趣のある長屋などが多く残る9つの町内で商売繁盛や悪霊退散を祈願して地車を曳行することで有名です。JR大和路・地下鉄谷町両線の平野駅近くをだんじりが巡航することから、毎年地元だけでなく他県からの見物者も多く訪れます。各家の前で御祝儀を持ってだんじりを待つ人も多く、御祝儀をもらった家に対して感謝の気持ちや家内安全を祈願して「大阪平手打ち」が行われ、「もひとつせぇ」「祝うて三度」という掛け声で手拍子を打ち一例する光景を各所で見ることができます。
・・・私が紹介するまでもありませんので、ここでは、ちょっとレアな情報を掲載していきます。
《NEWS》2015.10.10朝日新聞デジタルより
暮らしと共に夕刊100年/大阪・平野の寺と新聞販売店
http://www.omoroide.com/index.html
100年前、朝日新聞が夕刊の発行を始めた。大阪市平野区の平野郷地区には、それより昔から購読を続ける寺院と、配達を続ける新聞販売所がある。その間、新聞は暮らしと共にあり、町の姿を伝えてきた。約1400年前に建立された平野郷地区の全興寺は、川口良仁住職(68)の少なくとも先々代の時代から1世紀以上にわたり、朝日新聞を購読している。川口住職にとって、新聞の最初の記憶は、終戦から間もない幼少期。「四コマ漫画はいつも読んでたけど、新聞と言えば、ものを包んだり掃除に使ったりする『新聞紙』だった」。近所の八百屋も魚屋も包み紙は新聞。1杯5~10円程度のかき氷も、小さく切った新聞紙に載せて売られていた。冬は、小学校の石炭ストーブの着火に使った。おもちゃにもなった。かぶとを作り、ぬらした新聞を鉄砲玉として竹筒に詰め込んだ。10代半ばから社会面や地域面でニュースを読むようになり、高校では大学受験に役立つと言われて天声人語を熱心に読んだ。そして33歳だった1980年に初めて、新聞を通じて自らニュースを発信する。新聞で南海平野線の廃止を知り、地元の仲間と駅舎の保存運動を始めた。実現できなかったが、「平野の町づくりを考える会」を立ち上げ、江戸の町割りが残る平野郷地区の景観保存運動に乗り出す。93年には地元の商店や民家、寺などを開放し、地域の歴史と文化を発信する「町ぐるみ博物館」を始めた。古い歴史がありながら近年は途絶えていた連歌会や神事を復活させたり、平野弁で「第九」を歌う催しを開いたり・・・。各紙の記者と付き合い、様々な取り組みを発信した。「ただ単に『新聞に載せて』ではなく、記者たちとのふれあい、本音での語り合いを大事にし、平野の面白さを知ってもらおうとした」外から人を呼び込むための仕掛けを無理にこしらえるのでなく、地元に残る昔話や伝統行事、食文化を再発見し、生かすことこそが「町づくり」だと考える。新聞にも似た役割を期待したいという。「目に見えるものを伝えるだけでなく、町に埋もれている宝物を掘り起こし、それを形にする。それが新聞の仕事なんちゃうかな」全興寺に新聞を配ってきたのは、1889(明治22)年創業の朝日新聞販売所★「小林新聞舗」。経営する小林治夫さん(68)は、川口住職の小中学校の同級生で、同じく町づくりに取り組んでいる。月1回、古い号外や配達道具などを展示する「新聞屋さん博物館」を開くほか、1983年からは新聞に挟みこむタウン紙★「だんじり」を月1回発行する。タブロイド判の表裏2ページで、地元の夏祭りや飲食店などの情報を載せる。ネットの普及で新聞を取りまく状況は厳しいが、「新しい住民の方にも平野の歴史と伝統を知って欲しくて続けています」。
【小林新聞舗】(新聞屋さん博物館)
547-0044大阪市平野区平野本町4-12-3
http://asahi-kobayashi.jp/contents/museum/index.html
創業: 1889年(新聞販売店として)
開館日:第4日曜日の9時−17時
建築:1929年(昭和4)に建てられたもので、「小林新聞舗店舗兼住宅」の名称で国の登録有形文化財に登録されている。
※朝日新聞サービスアンカー平野本店(株)小林新聞舗
http://asa-gao.net/asa_shop/hirano/
547-0032大阪市平野区流町1-4-1/06-6790-0022
《参考》小林治夫
http://www.e-konan.net/ob/kobayashi.html
・・・そのタウン紙「だんじり」に、《育和のだんじり》のことが掲載されていました。話し合いで杭全神社への★10台目だんじり「宮入」が、実現することを楽しみにしたいと思います。
《育和社会福祉会館(育和地域活動協議会)》
546-0002大阪市東住吉区杭全2-11-14/06-6713-2878
http://www.osaka.zaq.jp/ikuwa/index.html
★2015年7月13日、杭全神社夏祭りだんじり宮入の際、本殿前に各町高張提灯を奉納するイベントが本年初めて行われました。 育和地車会にもお声がかかり、九町と同じく奉納することができました。
★2016「育和だんじり祭り」が開催されました
http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000367514.html
平成28年7月2日(土)・3日(日)、「育和だんじり祭り」が開催されました。2日(土)午前9時から育和社会福祉会館で、★杭全神社宮司さんによる地車安全運行祈願祭の後、地車の曳行となりました。今回で28回目となりますが、小学生・中学生の若手の曳き手等が増え、より華やかに、にぎやかに感じられ、世代を超えた地域に定着した「祭り」となっています。また、「社会を明るくする運動」の啓発活動も行われました。
《参考》大阪市立★育和小学校
546-0002大阪市東住吉区杭全4-10-12/06-6713-1253
http://swa.city-osaka.ed.jp/swas/index.php?id=e741696
校名の「育和」は、校名制定当時の校区が今川・今林・杭全・桑津の4地域(旧東成郡北百済村)だったことで、今川・今林の頭文字「い」と杭全・桑津の頭文字「く」から「育(いく)」とし、校区の4地域が和するという意味を込めた「和」を組み合わせて名付けられている。また校名には、児童があたたかく育ってほしいという願いも込められている。1872年(明治5)★平野七か町と十三か村連合で、第一番小学校を開設する。1875年(明治8)新在家村76番地の源光寺を借りて教室とし、第一番小学校から分離して、住吉郡第七大区第一小区第八番小学校を設立する。1892年(明治25)北百済尋常小学校と改称する。1893年(明治26)現在地に新築移転する。1922年(大正11)大阪市★育和尋常小学校と改称した。
※「平野七か町十三か村」
●平野七か町(町村制施行により統合し住吉郡平野郷町)/
平野野堂町、平野流町、平野市町、平野背戸口町、平野西脇町、平野泥堂町、平野馬場町(近世の平野郷町は、7町4村=今林村、新在家村、今在家村、中野村で構成されていたが、明治12年に4村は分離された)
●十三か村/住吉郡今林村・新在家村・今在家村・中野村・砂子村・鷹合村・湯谷島村、渋川郡鞍作村・正覚寺村・四条村・大地村・伊賀加村・西足代村
・・・加美ブロックの夏祭りも紹介しておきましょう。
【正覚寺】
547-0006 大阪市平野区加美正覚寺2-9-26/06-6791-3969
http://www.eonet.ne.jp/~shougakuji/index.html
天長2年(825年)に空海(弘法大師)により開基。かつては境内四町四方、本堂二十一間四面、不動堂七間四面、その他山門、廻廊、伽藍等巍々たる名刹で、東之坊ほか五坊を有する巨刹だった。明応2年(1493年)2月25日に畠山政長が室町幕府10代将軍足利義稙と共に正覚寺城(現在の旭神社境内)に本陣を敷き畠山義豊と対峙するも逆襲に遭い、それに荷担した細川政元が京都でクーデターを起こし(明応の政変)、諸将合わせて4万余の兵を率いて進撃、4月23日に本陣は陥落し政長は自殺、義稙は捕虜となり、寺は兵火に合い三日三晩燃え続け、寺院内の高僧や修行僧は寺院と運命を共にした(正覚寺合戦)。以後、正覚寺は廃寺となり、現在、正覚寺旧六坊(柳之坊、池之坊、中之坊、大寺坊、揚々之坊、東之坊)のうち東之坊のみ現存し、山門の傍らに★『正覚廃寺の由来碑』がある。現在の正覚寺前に由来記板があり、そこに『天長年間弘法大師開基(中略)昭和十二年に太田上人が三晩日昭上人の夢を見て報恩のために再建を決意、昭和三十七年に完成した』と記されている。
《加美ブロック》
旭神社夏祭りは、7月15日(水)・16日(木)於:旭神社です。
正覚寺地区は、かつて旭神社氏子だんじり連合で曳行していましたが、岸和田形だんじり曳行(やりまわし)になってから★正覚寺独自で実施されています。正覚寺だんじり祭りは、7月18日(土)・19日(日)、行ってきました。
・・・独自のだんじり祭りということで、ちょっと寂しいかなと思いましたが、なんのなんの結構迫力があって、ついつい興奮してしまいました。帰り道は、もちろん杭全神社経由です。