・・・前回、「広住塚」のことを紹介しましたが、その場所を探してみました。
【広住塚】大阪府全志・巻之3より
広住塚といへるは西喜連西町西口の字上田にあり、南北三間・東西五間・高さ四尺許にして樹竹雑生せり。応神天皇の妃息長眞若中女姫の墳なりと伝え、今を距ること二十年前邑の外濠浚渫に際し、塚邊より一の建石を掘出したるに、息長眞若中女姫の刻字ありて、今も楯原神社に所蔵せらる。
・・・「西口地蔵尊」から環濠跡の道を少し南へ下った西側に駐車場があり、一坪ほどの塚?があります。駐車場として整地されてもおかしくないのですが、残されただけの理由すなわち「広住塚」(応神天皇妃・息長眞若中女姫)にかかわる場所だと思われます。
《近畿大阪銀行喜連支店》
547-0027大阪市平野区喜連2-7-28/06-6790-1811
地下鉄谷町線「喜連瓜破駅」3号出口からすぐのところに近畿大阪銀行があり、その前に、
【「伎人堤と河津境の由来」碑】
続日本紀に741年「摂津河内の河堤を争う」750年「破堤」とある伎人堤を1960年代まであった「かっつらかい」とし有志が建碑した。喜連は摂津、瓜破は河内なので「かっつらかい」は河津境、併せ掘られた河を息長河に比定、伎人(渡来人)の進んだ土木技術で造成された、としています。
万葉集に、★於河内国伎人郷馬国人之家宴歌「にほ鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽きめやも」という一首がある。喜連の豪族の馬史国人が詠んだ一首で、天平勝宝8(756)年に聖武・孝謙・光明の皇族の一行が難波・河内に行幸した際、馬史国人の家で宴が催され(歌人・大伴家持も同席)そこで詠われた三首のうちの一首。
息長川は、飛鳥時代に洪水を繰り返した瓜破から北流する谷川を伎人堤で堰き止め、中高野街道を切り通して西喜連水郷地帯に注ぎ、現在の今川経由で難波宮に結んだ人工河川だったと考えられている。近年まで喜連南辺に大きな堤と川が残っており、地下鉄はこの川を掘って敷かれ、流路沿いにタカンテ(高堤)やかっつらかい(河内摂津境)・唐下(伎人)などの古地名、また池の浦・ツブレ池・浪打など「息長川は絶えぬとも」を思わせる古地名も残っているそうです。
・・・建立者として刻まれていた「富永新蔵」さんを調べましたがわかりません。以下の方々は何らかのつながりがあるかもしれません。
●有限会社「富永地所」
547-0027大阪市平野区喜連2-2-12/06-6709-0850
●社会福祉法人「永寿福祉会」特別養護老人ホーム喜連(富永徳吉)
547-0027大阪市平野区喜連2-2-40/06-6790-6666
●富永勝自転車商会
547-0027大阪市平野区喜連7-9-25/06-6708-6696
●有限会社「富永自動車」八尾市太田新町8-178
会社は八尾市にありますが、富永基史社長が喜連出身だそうです。
《喜連霊園》大阪市平野区喜連東3-2
「息長田ヰ中女命之霊★南無妙法蓮華経 法界萬霊」と刻まれた碑があり、裏面には昭和39年5月発願主「蔭福寺知興」他となっていました。近辺に「蔭福寺」は見当たりませんので、「法華宗」の寺院を探してみました。
【★法華宗(真門流)「善法寺」】
547-0026大阪市平野区喜連西4-7-21/06-6702-1123
近年まで存在していた喜連西池跡に建立されており、昭和30年代善法寺建立の際、住職の夢枕に古代当地の開拓者という息長沙禰王が出現したとかで、この碑が建立されたそうです。喜連霊園にある息長田井中女命の碑発願主・蔭福寺知興は、善法寺の碑にある開基住職・川村智興と同一人ではないかと思われます。裏面には息長氏の系図が刻まれており、男系・女系を織り交ぜて日本武尊から継体天皇までを繋いでいます。石碑は昭和36年建立です。
「善法寺創建之辞」石碑には、この地は息長田別王の領地で、狭山池より水を引いて稲作を始めた。息長沙禰王の時代に水害が続き、池を掘り堤防を築いた。この地にあった西池を埋立てる際に起きた事故の犠牲者を供養する目的で建てられたとのことです。
・・・境内には西池の名残の池があり、その横に★「喜連龍王」の祠があります。古の景色を彷彿とさせる角度に建っており、とても存在感があり興味そそられます。