東住吉区(7) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

《覚林寺の井戸と堤》

546-0013大阪市東住吉区湯里4-16-9/06-6702-7490

http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000032786.html

真宗大谷派に属する覚林寺の西側を、旧狭山西除天道川(西除川)が北上しており、その左岸と思われる場所には、昭和の中頃まで堤が南北に長く残っていました。また、地名の「湯里」にあるように、江戸期には「湯屋島村」とか「湯谷村」と呼ばれて、温泉が湧出する町でもありました。寺の西隅に枯渇した井戸があり、これが温泉跡と言われています。しかし、「摂津郡談」によれば、元禄(1688~1703)の頃には既に枯渇し、『その旧泉を慕い井を掘らしめ湯谷井という』と述べられています。この井戸の位置から、南々西1.5kmには★「ふれ愛温泉」があり、現在も温泉が沸き出ています。


ふれあ1


《ふれ愛温泉矢田》

546-0023 大阪市東住吉区矢田6-3-16/06-6606-4126

http://yata-jinken.com/fureai/index.html

泉源は、『大和川矢田温泉』として登録され、1988年、大阪市内ではじめて掘削に成功した天然温泉です。泉源温度45度の良質ナトリウム・カルシウム塩化物温泉で湧出しています。5ヵ月近いボーリングの結果、地下1200mで、湯が噴き出しました。1988年(昭和63)の6月29日のことです。地主の「矢田生活協同組合」が掘り当てたもので、「大和川矢田温泉」と名付けられました。近くに「湯里」という地名が残ることに着目しての結果で、大阪市内では初めて掘削された天然温泉となりました。しかも、ナトリウムイオン、塩素イオンなど塩類を豊富に含む良質の食塩泉と判明。45℃もあって加熱せず浴用に使え、飲用も可能なもので、府内トップクラスの温泉となりました。2005年(平成17)リニューアルしました。なお、同温泉を源泉として、大和川の少し下流の「行基大橋」の袂に、大阪市が「ラスパOSAKA」を営業していましたが、2010年(平成22)3月末で閉鎖されました。


ふれあ2


《にんやか田邊(田邊HOPEゾーン協議会)》

http://ninyakatanabe.sakura.ne.jp/

大阪市東住吉区の旧北田邊村、旧南田邊村の集落を中心とした「田邊」の地域で、より魅力的なまちなみづくりを進めていくことを目的とし、2008年7月10日に設立されました。田邊は★庚申街道や下高野街道、難波大道など数多くの街道が交差し、古代から今日に至るまで、さまざまな歴史や文化を連綿と織りなしてきました。このテーマには、これらの資源を活かしながら、地域の方々と一丸となって、にんやかに(田邊の方言で「にぎやかに」の意)まちなみづくりを進めていきたいという思いが込められています。また、古くから用いられてきた「田邊郷」という言葉を使うことで、まちなみだけではなく、田邊に住む人々や田邊を訪れる人々にとっての心温まる「ふるさと」になってほしいという願いを表現しています。なお、にんやか田邊では、田邊の歴史的な背景を大切にするため、田辺を「田邊」と旧字を使って呼ぶことにしています。にんやか田邊は、このテーマの実現に向けて、大阪市HOPEゾーン事業を活用し、大阪市と連携して、まちなみの修景整備(まちなみをつくること、整えること)を進めています。みんなで力を合わせて、田邊らしいまちなみづくりに取り組んでいきましょう。


ふれあ3


《俳優記念碑》

http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033879.html

★友愛センター北田辺の前に、明治43年建立の石碑があり「俳優記念」と刻まれています。明治の中頃に文楽の役者が住んでおり、その人の指導で、この地に浄瑠璃が盛んとなり、これに芝居も加えて「山坂連中」と名乗り、近郷切っての人気一座だったと伝えられています。この「山坂連中」のメンバ-により記念として、この石碑が建立されたものです。


ふれあ4


《友愛センター北田辺》北田辺6-11-4/06-6621-9900

http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033902.html

明治の頃、北田辺村を東西に通じていた街道(大正時代の★「庚申街道」)に面して村の青年会の集会場として、「北田辺青年団会館」が建てられていました。戦後の昭和38年(1962)、老朽化してきたので大阪市に寄付し、地域青少年の健全な育成の活動拠点として「北田辺ユースセンター」に改築され、名付けられました。平成15年(2003)にはこれも老朽化し、その存在意義を果たしたので改築し、現在の「友愛センター北田辺」と改称されて、地域の福祉活動の場として、活用されています。


ふれあ5


《開高健文学碑》

546-0044大阪市東住吉区北田辺4-16-29近鉄「北田辺駅」

http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000032787.html

開高健は小学校教員を父として、昭和5年(1930)天王寺区に生まれました。7歳の時に★北田辺に転居し、昭和18年(1943)旧制天王寺中学(50期生)(現・大阪府立天王寺高校)へ入学しましたが、在学中に父親が病没し苦学しました。第二次大戦後、旧制大阪高等学校文科(英語)に入学、学制改革により、翌年大阪市立大学法文学部法学部に編入(大学1期生)しました。大学在学中に谷沢永一主宰の同人誌『えんぴつ』に参加、昭和27年(1952)1月に同人仲間の牧羊子と結婚します。羊子の紹介で壽屋宣伝部に中途採用され、PR誌『洋酒天国』の編集やウイスキーのコマーシャルで有名となります。この頃に芥川賞を受賞(裸の王様)し、独立し文筆業に専念します。昭和39年(1964)に朝日新聞社臨時特派員としてベトナムの最前線に出ました。反政府ゲリラの銃撃に遭って、総勢200名の内17名の生還者でした。ベトナムでの戦争体験による作品でも有名となります。また、釣り道楽者としても知られています。1989年に食道癌の手術を受けましたが、その後、食道腫瘍や肺炎を併発して58歳で死去し、墓所は鎌倉・円覚寺にあります。死後、開高の業績を記念して開高健ノンフィクション賞が創設されました。また、後半生の16年間を過ごした神奈川県茅ヶ崎市に開高健記念館が開設されています。当顕彰碑は開高健が北田辺に住んだ小、中、高校の頃を記念して、有志の募金により近鉄北田辺駅前に平成17年(2005)11月5日建立されたものです。