露天神社 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・近松門左衛門・竹本義太夫ときたら、「お初天神」を欠かすわけにいきません。


おはつ1


お初天神通り商店街会

http://www.ohatendori.com/

お初天神通り商店街の由来は、やはり露天神社(お初天神)と共にあります。終戦後直後からお初天神の境内に飲食店が集まり始め、30店舗ほどのお初天神食道街として栄えました。当時あったお店、例えばしゅうまいの阿み彦や小料理の扇屋は現在でも近くに場所を移して昔の味を守りながら営業中です。お初天神の本殿は戦災で消失したが、商店街の西側の建物は奇蹟的にも何軒か焼け残った。当時の様子を以前の商店街会長高橋さんは「延焼を逃れるため、皆でバケツリレーをやったもんや」と当時を振り返えります。焼け残った商店街には、今ではオリジナルお好み焼で有名なゆかりや元祖豚平焼きの本とん平など、今でも名を残すお店ができはじめました。昭和30年頃からは低いビルも建ち、商店街としての形が整ったのです。


おはつ2


露天神社

530-0057大阪市北区曽根崎2-5-406-6311-0895

http://www.tuyutenjin.com/

「お初天神」の名で広く知られる当神社は、正式名称を露天神社といいます。1703年(元禄16)に当神社の境内で実際にあった心中事件を題材に、近松門左衛門が人形浄瑠璃「曽根崎心中」を書きました。以後、そのヒロインの名前「お初」にちなんで「お初天神」と呼ばれるようになったのです。「曽根崎心中」は、元禄16年日に起こった、堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」が当神社の「天神の森」にて情死した事件をもとに、近松門左衛門が劇化したものです。この作品は当時の人々の間で大評判となり、当神社にも参詣回向の老若男女が大勢押しかけたといわれています。広く民衆の涙を誘うこの作品はその後も繰返し上演され、今日でも回向とともに、恋の成就を願う多くの人々が訪れています。なお、昭和47年月、曽根崎中1丁目の有志によって、恋に殉じた二人を慰霊するための「曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地」という石碑が建立されました。二人の300回忌の後、氏子の一人が「お初さんのために」と100万円の寄付がありました。それをきっかけに、地元の商店街などから寄付金が寄せられ、平成16年月にブロンズ像が製作されました。


おはつ3


社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の850年(嘉祥)にまで遡ることができ、世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。901年(昌泰月、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中、福島に船泊まりされた折に、当社東方に伽藍を構える「大融寺」に船頭茂大夫の案内でご参詣の道すがら、当地で、上の歌を詠ぜられた。この故事にちなみ、露天神社と称すると伝えられている。(『摂津名所図会』に記載の説)管公は、1622年(元和月に、二郎左衛門九世の孫・渡辺新兵衛源尋が、大阪夏の陣の兵火で焼失した当社社殿を再建するとき、その御霊代として後陽成天皇より御神名御宸筆を賜り相殿に合祀された。


おはつ4


・・・この後、「お初」さんのお墓参りへ。


おはつ5


久成寺

542-0065大阪市中央区中寺2-1-4106-6768-9507

近松門左衛門の墓に近い久成寺」、地下鉄谷町九丁目駅から歩いて2分程の場所に「お初」さんのお墓(戒名:妙法妙力信女があります。すぐそばには、小説『檸檬』で知られる梶井基次郎の「常国寺」もあります。『大阪伝承地誌集成』では、お初は天満屋の遊女で、天満屋が久成寺の檀家であった関係から、当寺に墓が建てられたとされています。明治の動乱期には所在不明となったが、2002年(平成14)お初の300回忌に当たることから、当寺の住職が再建されました。また、当寺には天満屋の遊女某がお初を慕って、墓前で自殺を図り、住職に助けられたという伝承もあるそうです。


・・・「徳兵衛」さんのお墓も調べなければなりませんね。