・・・さて「大塩平八郎」つながりの最後に、「平野郷」との関係について記しておきたいと思います。
【平野区誌】平野区誌編集委員会編・平野区誌刊行委員会2005より
http://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=371
火は、天満から船場のあたりまで焼け広がりましたが、反乱は半日ほどで、幕府側に鎮圧されました。大塩と行動を共にした門人や多くの人々は、戦闘集団ではなく、かつての心ある東町奉行所の役人や、悪政に立ち上がった、普通の農民や町民だったからです。門人の多くは捕縛されてしまいましたが、大塩と、格之助は、混乱に乗じて逃げることが出来ました。先に送った、告発状が江戸に届くまでの間、身を隠すために、一度、奈良方面に逃げます。しかし、機会をうかがうために、再び大坂へ戻り、靱油掛町(大阪市西区靱本町1丁目)にある、大塩家出入りの、手ぬぐい地仕入れ★「美吉屋」五郎兵衛宅の離れに潜伏することになりました。★平野郷町の出身で美吉屋の奉公に来ていた下女が、出替わりで実家に戻った時に、「美吉屋では、最近飯炊きの量が増えたのに、少しも残らないから不思議だ」「他の奉公人は、大方神仏にでも供えるのだろうと気にしていないが、それにしては、お下がりが無いのはおかしい」と話していたのを伝え聞いた、平野郷町惣年寄★末吉平左門衛門・中瀬九朗兵衛が、現在★大阪市立平野小学校のところにあった「下総古河藩陣屋敷」に訴え出ました。その後、下総古河藩・家老鷹見泉石らが命じた、町奉行与力内山彦次郎が、美吉屋を尋問の上自白を得て、三月二十七日、ついに美吉屋を取り囲んでしまいます。
そこで、丸坊主姿の平八郎本人を確認、問答の末、美吉屋に篭城。その後、無念の大塩親子は、爆薬に火をつけ自害しました。格之助は、腹を刺した状態で、平八郎は、喉を突いて突っ伏した状態で爆死していたそうです。顔の判別も出来ないほどの状態だったそうですが、大塩親子の遺体は塩漬けにされ、他の門人二十名と供に、飛田刑場で三日間磔にされました。処罰された者は、家系・家族七百五十名にものぼり、獄門、遠島されました。
《下総古河藩陣屋敷(平野陣屋)》
547-0046大阪市平野区平野宮町1-9-29大阪市立平野小学校
平野陣屋は、安永9年に土井利厚によって築かれました。下総古河(現・茨城県古河市)8万石を領した土井氏は、大坂夏の陣では徳川家康の本陣が置かれた摂津国住吉郡平野郷(現・大阪市平野区)も藩領とされ、現在の大阪市立平野小学校のあった所に采地(領地)陣屋を構え、摂津・播磨(12600石)飛地領も含めて統治しました。幕府内でも重要視されており、明治まで替わること無く領しました。
《古河藩陣屋門》
1927年(昭和2)まで、跡地である平野小学校の表門としてそのまま使われていましたが、敷地拡張のため1937年(昭和37)大念仏寺に移され南門として活用保存されています。
《2015「大阪歴史博物館研究紀要」第13号》より
大坂蔵屋敷の主要と移転に関するノート/文:豆谷浩之
藩主の土井氏は、1763年(宝暦13)に肥前・唐津から下総・古河に領地が移された。唐津を所領としていた時期の蔵屋敷は堂島新地にあった。そして、古河への転封に合わせて、平野郷町を領地に加えている。古河藩では、これに合わせて1780年(安永9)に平野に陣屋を設けている。一方で大坂の蔵屋敷は1777年(安永6)版「難波丸綱目」の記事によれば、天満の「魚屋町」に移っている。「魚屋町」は、現在の南森町付近にあたる。天満天神社に近い繁華な場所であるが、川筋から離れており、広い土地の確保も困難と思われるため、蔵屋敷の立地としては必ずしも適切とは言えない。同じころに平野陣屋が開設されたことを考えれば、大坂蔵屋敷の存在意義が低下していたことを表していると考えてよいだろう。平野郷町は、中世末には自治都市として知られた町場であり、近世においては木綿の集散を中心とした在郷町であった。このため年貢の収納ばかりではなく、商取引に関係した事務手続きなどさまざまな需要があり、現地に陣屋を設けて直接管理する体制を選択したものと推定される。いわば、機内の小藩と同じような統治形態を採ったと考えられるのである。
《第40回造本装幀コンクール展》
公開展示:H18.7.6~9/於:東京ビックサイト
http://www.tosho.co.jp/news/newslist/060517.html
「造本装幀コンクール展」(主催(社)日本書籍出版協会・(社)日本印刷産業連合会)の審査会におきまして、弊社受注作品からは11点が入賞しました。弊社入賞作品を含め全ての入賞作品34点は「東京国際ブックフェア2006」会場(7月6日~9日東京ビッグサイト)で公開されます。またドイツのライプチッヒで開かれる「世界で最も美しい本展」にも日本の代表作品として出品されます。
★日本書籍出版協会理事長賞(社史・年史・自分史部門)『平野区誌』創元社
・・・長く張り替えられることのなかった「地下鉄平野駅」の地下通路掲示板、「大塩平八郎」ではなく「真田幸村」パワーでようやく、でもまだまだ寂しいですね。