・・・「大塩の乱」では大砲(木砲)が用いられたらしいので、どこでどのように入手したのか調べてみました。
・・・大坂のど真ん中で「乱」の準備、まして「大砲(木砲)」など武器を用意することは考えられません。ということで、大塩に関係する周辺の町・村を調べました。
【高槻市「いにしえ物語」】
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/kakuka/sougou/eigyouko/Websitekanri/inishie/aboutinishie.html
このコーナーは、高槻のいにしえを人物と事件を中心に紹介します。なお、この内容は、平成4年1月25日から平成7年9月10日まで★「広報たかつき」に連載されていた「新いにしえ物語」をホームページに再掲するものです。
《いにしえ物語最終話 大塩平八郎探索一件 八》
大塩平八郎は当代一級の陽明学者でしたから、彼を崇敬し、親しく講義を求めるものも多くありました。高槻藩でも、藩校★「菁莪堂」に大塩をたびたび招き、家士に講話を聴かせていますし、その縁で先の服部奥助のように、子弟を門人として「洗心洞」塾に住まわせるものも出ています。高槻藩永井氏九代藩主直進・十代直与 親子の学問奨励以来、家中には向学の気風が定着していたのです。平八郎と親交があり、書状のやりとりをしている藩士(門人)には、高階子敬・芥川元答・柘植連城などがいました。子敬は本名高階雄次郎。大塩は彼に松茸をもらったお礼と、学問上の質問に対する答えを書き送っています。大塩研究の草分けである故★幸田成友博士は、この雄次郎を「子収」とされ、この雅号が一般に流布していますが、藤井竹外の「二十八字詩」の稿本などから竹外と大塩平八郎とを含む交友関係を探ってみると、どうしても「子敬」の名しかでてこないのです。子敬と子収が別人ならば子収も竹外の交遊関係に出てこなくてはならないはずなのです。原本を見ないで軽々しく批判するのは幸田博士に失礼ですが、どうも書状の宛名を博士が読み違えられたと思われてなりません。そこで一応「子収」を「子敬」のこととして解説しておきましょう。高階子敬は、有名な漢詩人で明治の藩政改革にも活躍した高階春帆と同一人物だという説もありますが、これは誤り。天保十一年(1840年)の年紀のある「高槻城下図」の中に、大手門内三之丸東側に「高階雄次郎」の屋敷があり、万延元年(1860年)の図には同地を「高階民太郎」が所持していますから春帆(民太郎)と子敬(雄次郎)は明らかに子と親の関係で、子敬は「左忠」のことにまちがいありません。民太郎はこの一揆当時十一・二歳でした。
【菁莪堂跡】高槻市城内町1
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/kanko/database/rekishi/1327035038166.html
明和年間(1700年代中頃)に、当時の高槻藩主★永井直進が士風の高揚を図り、創立した藩校。江戸後期には陽明学者として名高かった★大塩平八郎をたびたび講義に招いたという。明治期に入り「文武館」と改称したが、のちに廃校。その碑が★高槻一中の運動場に残る。
《高槻市立高槻小学校》
明治時代初期の1873年、島上郡の各村の連合で「島上郡第九大区第二小区第一番小学校」を創設したことに始まる。現在の高槻市の中心部~中南部にあたる地域を校区とし、円成寺(現在の高槻市京口町)に仮校舎を設置した。現在の高槻市域では最初に設置された小学校でもある。翌1874年4月に旧高槻藩の藩校★文武館跡(「菁莪堂跡」とも。現在の高槻市城内町、高槻市立第一中学校付近)に移転している。
《高槻市立第一中学校》
学校敷地は高槻城内にあり、1909年から1945年にかけて駐屯した工兵第四連隊(当初は大隊。第四師団隷下)の跡地に立地する。かつて構内にあった工兵第四連隊営門を分離して史跡として保存している。
《参考》『砲術家の生活・新装版』著:安斎実/雄山閣出版1989
★「大塩平八郎の乱における鉄砲戦」に、鉄筒や木砲などの図が記載されています。
霊山歴史館(京都)・二本松市歴史資料館(福島)には、戊申戦争などに用いられた「木砲」が展示されていました。
【陽明学】
中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた。心即理・知行合一・致良知の説を主要な思想とする。日本に伝わった朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれた。一方、陽明学は王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合もあった。自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。江戸期の代表的な陽明学者は中江藤樹と弟子の熊沢蕃山である。幕末の維新運動は陽明学に影響を受けている。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山が歴史上おり、革命運動(大塩平八郎/大塩平八郎の乱)に身を挺する者が多かったのは事実である。一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷は、瀕死の藩財政を見事、建て直した。山田方谷自身は陽明学者だったが、彼は陽明学の持つ危険性も承知しており、弟子には先に朱子学を学ばせ、センスの良いものにのみ、陽明学を教えた。
・・・「陽明学」がはらんでいる危険性、なかなか興味深いですね。
大塩は、この頃は養子の格之助に家督を譲って隠居していたが、東町奉行跡部山城守良弼に何度か救急策を建議するが容れられなかった。遂に大塩門下による挙兵を決意する。同年1月の同志連判状には約30名の門下生が知られるが、与力・同心11、浪人1、百姓(豪農)12、医師2、神職2、その他2と分類でき、下級幕吏と豪農を軸にしている。
大塩は蜂起の2ヶ月前、蔵書1241部を金668両余りで売り払い、武装蜂起に備えて資金を調達した。家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を実施した。決起の日を、新任の西町奉行堀利堅が東町奉行の跡部に挨拶に来る2月19日と決め、同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てた。2月上句、施行札を1万部余り印刷し配布した。施行札には、「大塩は、このたび蔵書を全部売り払って困窮する家々の人たちに金一朱(いっしゅ)ずつ配ることにした」と書かれ、この札を持って集まってきた人たちに、「もし、大坂の自分の家に火の手が上がった時は、応援に駆けつけて欲しい」と伝えたと云う。これによれば、乱に先立って民衆動員の態勢作りをしていたことになる。檄文は木版刷り2040字に及び、漢文読み下し文体で書かれている。版木は上下方向に4段に分割されていた。日付けなどが入った最後の1枚を含めると合計33枚の版木に分割されていたと思われる。当時は版木印刷時代であり、露見することを警戒して複数の版木屋に部分発注し、その版木を集めて自宅で印刷している。「四海こんきゅういたし候はば」という書き出しにしても、「四海こんき」と「ゅういたし候はば」という二つの版木に分け、内容が悟られないよう工夫していた。(この檄文は現在、大阪天満の成正寺に伝わるが、版木は行方不明)大塩の発した檄文は、幕府に反感を持つ庶民の手で、取締りをかいくぐって、筆写により全国に伝えられた。
更に、「棒火矢」と呼ばれる焼夷弾の一種も準備していたし、大筒に至っては、蜂起の凡そ半年前、大坂近郊★高槻に住む「柘植牛兵衛」という人物から譲り受けていた。
・・・とうとう、「棒火矢」[大筒」のことが書かれている資料にたどりつきました。やはり「高槻」でした。
《参考》NHK・BS歴史館「大阪から江戸を撃つ!真説・大塩平八郎の乱」より
「救民」の旗を揚げ300人程の大阪町民が決起したのですが、内通者がいて奉行所側に察知され半日で鎮圧されてしまいます。その後大塩平八郎は、火薬を使って自決、処罰された者は750人にも及んだそうです。この乱に加わった橋本忠兵衛の子、松次郎(13才)が★屋久島へ流刑され、その子孫の方が島の北西、永田の地でお墓を守っておられるそうです。松次郎さい以外にもこの事件の関係で屋久島へ来られているようです。
《参考》「雪華の乱」著:岡田誠三(1913~1994)
大阪府大阪市出身の小説家。大阪府立生野中学校(現大阪府立生野高等学校)、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)を経て、朝日新聞社に入社。記者として南方戦線に従軍した経験を基に、短編小説『ニューギニア山岳戦』を著し、1944年上半期の第19回直木賞を受賞した。その後も朝日新聞学芸部記者として映画評などの記事を書き続け、定年退職後に創作活動を本格的に開始。サラリーマンの老後を描いた『定年後』はベストセラーになり、テレビドラマ化された。 ほかに『定年後以後』、大塩平八郎の乱をモチーフにした★『雪華の乱』などの作品がある。★司馬遼太郎とは、生涯にわたり交友を深めた。父★岡田播陽は大正時代、大阪・心斎橋で呉服商を営む傍ら、町人学者として社会論や小説を著した。代表作は儒学者★中江藤樹の逸話を小説風に仕立てた『近江聖人』で、史料『蒹葭堂献本始末』の翻刻も手掛けた。博学・奇才の人と言われ、画家森琴石の日誌にも名前が登場する。
《参考》「大塩平八郎の乱―精神科医が診た歴史上の事件」著:大原和雄
天保年間、知行合一を実践し、窮民救済のために立ち上がった陽明学者大塩平八郎。その人物像や蜂起に至る心的過程を克明に辿り、精神医学的考察を試みる。見立てによれば、大塩は「躁鬱症」だったということです。この躁鬱症+陽明学が反乱を起こした原因であると、シンプル過ぎる結論。そのほか、浅野刃傷事件、芥川竜之介自殺、坂本竜馬暗殺を取り上げる。
《参考》「狗賓童子の島」著:飯嶋和一
弘化3(1846)年、後醍醐天皇流刑伝説がある隠岐島に送られた15歳の西村常太郎。大塩平八郎の挙兵に連座した父・西村履三郎の罪による「処罰」だった。本書はその常太郎の目を通して、大塩平八郎の乱から隠岐騒動までの激動の時代を描いた歴史小説だ。大塩の★「檄文」を諳んじる島の人々は彼の高弟である履三郎を敬っていて、その遺児である常太郎を慈しむ。翌年、16歳になった常太郎は、狗賓(天狗の異名)が宿るという御山の千年杉へ、初穂を捧げる役を命じられる。隠岐島の守護神である狗賓の童子、つまり神の子になった常太郎は医術を学び医師として窮民救済に邁進していく。常太郎が商船が島にもたらしたコレラの治療に奔走する一方では、腐敗著しい幕府と島根藩の苛政に対して島民は反旗を翻そうとしていた。
・・・いろいろ調べた資料や図書を羅列しておきます。