【光徳寺善隣館「中津学園」】
531-0071大阪市北区中津2-5-4/06-6371-3000
1920年(大正9)第15代「光徳寺」住職を継承した★佐伯祐正は、翌年自坊にセツルメント施設「光徳寺善隣館」を開所しました。夜間裁縫塾、日曜学校、図書室、女子寮等様々な活動も、拡大途上に戦火に焼かれ志半ばで佐伯祐正は亡くなりました。しかしその想い、求めるものは今でも、私たち社会福祉法人「光徳寺善隣館」で実践されています。
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009919.html
長男であった佐伯祐正は、男4人女3人の兄弟で、次男が「祐三」。30歳パリで亡くなった祐三の墓所は、ここ光徳寺にあります。旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)を卒業後、1918年(大正7年)東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。結婚後は家族と共にパリに渡り、短い生涯のなか独特のタッチで多くの作品を残しました。
【佐伯佑三】(1898~1928)
http://www.city.osaka.lg.jp/kita/page/0000000896.html
1898(明治31)4月28日、大阪府西成郡中津村(現★北区中津2丁目)浄土真宗本願寺派「光徳寺」の次男として生まれる。幼名秀丸、父は祐哲、母はタキ。
1923(大正12)4月、東京美術学校西洋画科を卒業。卒業制作は《裸婦》《自画像》。
11月26日、日本郵船香取丸で神戸から米子・彌智子とともに渡欧。
1927(昭和2)7月29日、東京を汽車で出発、大阪・下関・関釜連絡船・シベリア鉄道経由で、8月21日パリに到着。
1928(昭和3)2月、荻須、山口、横手、大橋とパリ東郊のヴィリエ=シュル=モランに写生旅行。3月、雨天の中での制作がたたり、風邪を引いて寝込む。29日、病床につく。4月、南仏への転地療養を考えたが病状が悪化。6月20日、失踪しクラマールの森で自殺未遂。23日、ヌイイ=シュル=マルヌのセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院。8月16日、同病院で死去。30日、6歳の彌智子がオテル・デ・グランゾムで病没。
《大阪市仏教青年会「大阪の誇り」》より
http://www.osaka-bukkyo.org/kakukai/sibusei/study/report01.htm
「祐正」は1896年(明治29)生まれ。平安中学校(現龍谷大学付属平安高校)を経て現在の龍谷大学に学んだ。在学中の1920年(大正9)に父の死去により光徳寺を継承。翌年自坊にセツルメント施設「光徳寺善隣館」を開設した。この施設こそが彼が理想としていた寺院の実践形態であった。彼は現実の仏教が非社会的で、寺院も閉鎖的で、人々の直面する苦悩に対し慰めようとしかしないことを批判し、それに立ち向かう勇気を持たせる、現実的、社会的な仏教を求めた。また、そもそも寺院は住職の私有物ではなく、公有的存在であると考え、寺院に門信徒のみならず地域住民の施設としての役割を持たせ、地域に貢献しようとした。彼は住民の生活レベルを向上させることを目的とし、その具体的な方法を物質的救与によらず、人格的交流つまり人と人とのふれあいを基調とすることで対応し、その改善に着手させる自覚的・教育的運動を展開しようとした。そしてこれはセツルメントの中心思想であると受け止めた。セツルメント事業と寺院は多くの共通点があり、寺院建立の趣旨に従って活動すれば、それが自ずとセツルメント活動となり、理想的な寺院となると考えたのである。では「光徳寺善隣館」ではどんな活動が行なわれていたのだろう。当初は少女のための夜間裁縫塾、子どもたちのための日曜学校、図書室、そして幼稚園やその母たちに母親教育も行なった。その後都会生活者のために、豊中の刀根山にカントリーハウス(刀根山山荘)を建設、また蔵書5千冊の図書館、日本初のお寺カフェ、さらに母子寮を開いた。これらの活動は次第に宗教部、教育部、会館部、助成部として整えられた。宗教部では、説教・講演・助葬・冠婚葬祭等。教育部は、図書館・読書クラブ・幼稚部・母の会・裁縫部・蛍雪クラブ(学童保育)・栄養給食等。会館部は、セツラー室(住み込みボランティア)・貸し会議部屋・カントリーハウス等。助成部は、方面委員・託児・授産・法律相談等。年間利用者数は約10万人に上り、また法務係を設置し、係が檀信徒の家庭を訪問し、その生活状況の把握と諸問題の発見を行い、効果的な活動につなげるように努めた。一般の寺院では、このうちの一部を担っているだけであるが、祐正は彼の理想とした寺院の実現に向かって突き進んだのである。しかし、1945年(昭和20)6月1日大阪大空襲で光徳寺善隣館は全焼。彼もこの時に重傷を負い、同年9月に49歳で往生された。
・・・この機会にいろいろ調べましたが、「真贋事件」があったり、どうもスッキリしません。やっぱり純粋に作品を眺めるのが一番のようです。
【森本薫】(1912~1946)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000827/files/4332_21415.html
1912年6月4日、大阪市東淀川区生まれ。旧制北野中学を経て第三高等学校文科時代にはヨーロッパ近代戯曲を耽読、ノエル・カワード、サマセット・モームに親しみ、京都帝国大学文学部英文科に進む。同人雑誌に発表した戯曲が小山祐士、田中千禾夫の眼にとまり、「劇作」に発表した『みごとな女』(後に文学座第一回公演【試演】として初演)が岩田豊雄の絶賛を受け、「劇作」同人になる。 1935年『わが家』(岩田豊雄演出)が築地座で初演、23歳で劇作家としてのスタートを切る。その後、『華々しき一族』『退屈な時間』など、洒落た台詞運びの、軽妙な機智に富んだ作品を次々と発表。ラジオ・ドラマの台本、映画シナリオなども手がける。1940年に岩田豊雄に推され文学座に入座。『わが町』翻訳、『富島松五郎伝』脚色、『怒濤』、そして最後の作品★『女の一生』を書き下ろす。 『女の一生』は文学座史上最多公演数を誇り、50年以上にわたって附属演劇研究所発表会の演目として毎年上演されている、文学座の〈宝〉である。肺結核再発のため病床で『女の一生』を改訂、1946年10月6日死去。享年34。
【豊崎神社】
531-0072大阪市北区豊崎6-6-4/06-6371-5264
http://toyosakijinjya.main.jp/index.html
大化の改新(645年)後、遷都された★難波長柄豊碕宮の旧跡地とされております。孝徳天皇の崩御後、松林となり果て、八本松と呼ばれたこの地を哀れんだ一条天皇が、藤田重治にこの地の開発を命じました。孝徳天皇の故宮を忘れてはいけないと松林に小さな祠を建て、孝徳天皇をお祀りしたことが始まりとされております。明治5年村社に社格が上がり、明治41年に村社南長柄八幡宮を合祀し、次いで本庄村にあった東照宮社、厳島社を末社に合祀されました。昭和19年、遷都1300年祭が齋行され、それと同時に社格を官幣大社豊崎神宮に昇格する為の申請を当時の宮内省、内務省に願書提出の内諾を受けました。しかし、終戦を迎えた為、社格昇格は無期延期となりました。しかも同年6月1日に空襲に遭い社殿は炎上してしまいました。現在の社殿は昭和39年10月15日に鉄筋コンクリート造りで復興いたしました。「氏神神社 豊崎神社」は通称「豊崎宮」と申しまして、氏子、崇敬者の皆様のご奉賛により祭祀、維持運営いたしております。
《難波長柄豊碕宮》
難波長柄豊崎宮、難波長柄豊埼宮とも表記されております。乙巳の変(645年)の後、中大兄皇子(後の天智天皇)らによって企画され、孝徳天皇が遷都しました。日本で最初の首都型宮殿とされております。難波長柄豊碕宮は当時あまり開発されていなかった大阪に初めて遷都されたということもあり、転々とされていたと言われております。大阪市中央区を中心とする★上町説と当社を中心とする★北町説があります。
【南浜墓地】
(北側区画)531-0072大阪市北区豊崎1-5-4
(道引き地蔵側)531-0072大阪市北区豊崎1-2
豊崎あたりは、古くから死人が出ると淀川河畔に捨ててしまう風習があり、「浜の墓」とも呼ばれていました。のちに行基菩薩がこの地を訪れたとき、浜に風葬されている光景を見て、民衆に我国で初めて火葬の方法を伝授しました。天平7年(735)、行基68歳の秋のことといいます。行基菩薩は荼毘に付した死者の霊をなぐさめるため、自ら一体の薬師如来像を造り、その仏前に淀川水系に群生する萩を手折り供えました。それを縁に人々の浄財で薬師堂を建立したのが「東光院」の始まりです。以来、「行基菩薩のこころ」として連綿と守り継がれた萩の花は、四苦八苦の人生を闘い抜く生命力の強さと、貧しく弱い人の心も、和合し合力することによって、大輪の花にも優る雄大なスケールの美と力が持てることを訴えつづけてきました。その伝統は今も萩とともに息づいています。(東光院HPより)
奈良時代の大僧正・行基(668~749)によって、当地に天平19年(747)、阿弥陀如来六観音六地蔵尊が安置され、荼毘開闢の供養が行われました。我が国★最初の墓所であり、火葬所のはじまりともいわれています。源光寺記には「聖武帝天平勝寶年中、大僧正行基三昧火坑を始むるの古蹟なり。今濱の墓所と云ふ。」と記されています。江戸時代には、「濱」(南浜墓地のことです)「梅田」「葭原」「千日」「蒲生」「鳶田」「小橋」の7つの墓所は「大坂七墓」と呼ばれていました。★大塩平八郎が建立した先祖の墓があり、その墓石の文字は平八郎の筆跡です。
【源光寺】
531-0072大阪市北区豊崎2-3-23/06-6375-0070
入江長者が娘の病を治した行基に土地を寄進し、747年(天平19)聖武天皇の勅願寺として開山。平生寺と称す。天治元年(1124年)良忍和尚が中興し、融通念仏宗に改め、念仏宗一派の本山とす。建永元年(1206年)勝尾寺から法然上人が四天王寺へ日想観を修するために赴く途中、行基ゆかりの寺の荒廃に「源をはづねてぞ知るこの寺の 光あまねき法のともしび」と詠み再興に尽力し、この歌から源光寺の名をとり、浄土宗に改めた。