はならあと(12) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・全国水平社創立者の一人、「水平社宣言」執筆者である「西光万吉」さんも、畝傍中学校(現畝傍高校)で学ばれていました。

【西光万吉/本名:清原一隆】(18951970

多感な青年期に受けた数々の差別に悩み、学校を転々とし離郷して画家志望となるなど出自をめぐる悩みを経験。その頃に起きた米騒動に触発され、同郷の盟友である阪本清一郎(後の水平社共同設立者)、駒井喜作らと共に青年運動、社会改造運動に没入していった。

1895年(明治28)奈良県南葛城郡掖上村(現御所市)浄土真宗本願寺派西光寺の長男として生まれる。

1901年(明治34)掖上村立尋常小学校入学。幼少時より絵画に秀でていた。

1905年(明治38)御所高等小学校入学

1909年(明治42)奈良県立畝傍中学校(現県立畝傍高校)入学

1911年(明治44)京都市平安中学校(現龍谷大学付属平安高校)に編入学、翌年中退。


さいこ1


西光は掖上尋常小学校、御所高等小学校、畝傍中学校(現畝傍高校)へ入学しています。しかし、その中学校でも差別をうけて登校拒否を起こし、図書館などで終日文学書を読みふけったりしています。文学青年であったのですが、やがて京都の平安中学校へ転校します。そこでも奈良県出身の体育教師から嫌がらせを受けます。西光はその教師の差別言動に憤って、密かに「アイクチ」を用意しますが、実行には移せませんでした。しかし、その反省が高じて、第一回目の自殺願望を起こしたのです。寺も嫌になり、画家志望に傾いていったのです。京都市岡崎に現存する★「関西美術院の寺松先生の元で絵の修行を始めています。今もその美術学校は岡崎にあるのですが、卒業者名簿に西光の名は載っていません。個人的に学んだのか、皆と一緒に学べなかったのかもしれません。

1913年(大正)東京★「日本美術院で日本画を学ぶ。同年国民美術展覧会入賞。

1914年(大正★「二科展入選。名を生家にちなみ西光万吉と改める。


さいこ2


◆「八木町道路元標」/橿原市八木町三丁目


さいこ3


延命院「八木寺」橿原市八木町2-3-400744-23-2261

天平時代に有った「八木寺」の後身寺院真言宗豊山派補陀落山「延命院八木寺」神亀六年(729)長谷寺開山徳道上人創立の霊場現在の本堂は、文政4年(1821)の再建本尊十一面観音(長谷寺の本尊と同木同体)かつての国分寺跡だという説もあります八木春日神社と隣接しています

「『たわぶれ』-このゆびとまれ- 」@延命院八木寺イロイロ Iroiro

思いつくままに、作り描き、組み合わせ、四人の遊び心をカタチにしました。


さいこ4


◆「八木春日神社」/橿原市八木町2-3

この辺りは「旧八木寺」のあった場所で神域にある礎石4個や、付近出土の瓦は奈良時代の様相があります創建は不明寛文元年(1661)の石灯籠が有ります祭神;天児屋根命、武甕槌命、姫大神、経津主命境内社四社;豊川稲荷神社(宇賀乃御魂命)、弁財天社(市杵島姫命)、金刀比羅神社(金山彦命)、愛宕神社(火霊産命)

「写真展『奈空良-nasora-』」@八木春日神社りゅう Ryu

「奈良は空が良い」 奈良の良さ、空の良さを、写真から届けたい。こだわりの空写真を集めました。


さいこ5


「カミとニンゲン」@八木春日神社三田村龍伸 Mitamura Ryushin

はならぁとに4年間参加。毎年、仏教をテーマに作品を制作している。今回は神(天)と人間(地)がテーマ。


・・・久しぶりに「ジンジャエール」を飲みたくなりました。