仏塔(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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★国宝「興福寺・三重塔」

康治2年(1143)に崇徳天皇の中宮が創建されましたが、治承4年(1180)に被災し、間もなく再建されました。北円堂とともに興福寺最古の建物で、高さ191m、初層は方三間で48m、本瓦葺き。鎌倉時代の建物ですが、木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の建築様式を伝えます。初層内部の四天柱をⅩ状に結ぶ板の東に薬師如来像、南に釈迦如来像、西に阿弥陀如来像、北に弥勒如来像を各千体描き、さらに四天柱や長押、外陣の柱や扉、板壁には宝相華文や楼閣、仏や菩薩など浄土の景色、あるいは人物などを描いています。東の須弥壇に弁才天像と十五童子像を安置し、毎年7月7日に弁才天供が行われます。


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・・・ふたたび「斑鳩の里」にもどります。「斑鳩三塔」のうち、法隆寺五重塔法起寺三重塔を紹介しましたので、残るは「法輪寺三重塔」です。


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■「法輪寺

636-0101奈良県生駒郡斑鳩町三井15700745-75-2686

http://www1.kcn.ne.jp/~horinji/

三井寺とも呼ばれ、「法林寺」「法琳寺」とも書く。宗派は聖徳宗、本尊は薬師如来坐像。法隆寺東院の北方に位置する。現存する三重塔は1975年の再建であるため、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていない。法輪寺は寺史に関わる史料が乏しいため、創建事情の詳細は不明であるが、発掘調査の結果等から、7世紀中頃には存在していたことは間違いない。本尊薬師如来像と虚空蔵菩薩像も飛鳥時代末期にさかのぼる古像である。三井寺と言う別名は、当寺のある三井の地名に由来し、付近に聖徳太子ゆかりと言われているつの井戸があった所から来ている(つの井戸のうちの1つが現存し、国の史跡に指定されている)。


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1975「三重塔再建

太平洋戦争末期の昭和19年7月21日、当寺の三重塔は落雷で焼失しました。焼失前の塔は最大最古の三重塔として明治時代より国宝指定を受けていましたが、全焼してしまったためにその指定は解除されました。焼失直後から再建を念じつつ、ようやく昭和30年代後半より再建事業としての形をとりはじめましたが、国宝指定解除で国の補助金が一切ないため、全額を当寺で調達しなければならず、大阪万博景気やオイルショックなど経済変動も影響し、小さい寺での再建事業は困難を極めました。しかしながら住職二代にわたって全国を勧進行脚するなかで、作家幸田文先生はじめ全国のたくさんの方々より大きなご支援をいただくことができ、昭和50年西岡常一棟梁のもと、旧来の場所に創建当初の同じお姿でお返しすることができました。現在塔内には、塔の焼失時にお救いできた釈迦如来坐像と四天王像(平安後期)をご安置しています。「天人の楽」にたとえられる風鐸(ふうたく/大型のものは塔の軒先に、小型のものは九輪についている、風で鳴る仕組みの鐘)の音を聞くことができるのも、塗られているベンガラ色が鮮やかであるのも、再建20年あまりの若々しい塔ならではの魅力といえましょう。


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内部の特徴として特筆すべきは、心礎が地下式であることでしょう。再建三重塔は、昭和47年(1972)発掘調査で確認された旧三重塔の心礎をそのまま使っています。基壇面より約2メートル50センチ地下に掘られてある心礎の中央には径15センチの舎利孔が半球状に穿たれていて、昭和19年の塔焼失時に拾得された仏舎利が、内側より順に瑠璃・金・銀・銅の壷に入れ子状に納められ、ご安置されています。外観では、次の点が大きな特徴です。まず、円い柱の下方に胴張りがきわだっていることが目につきます。また軒を仰ぐと、小天井が張られていないので、一重垂木の角材が軒より内部へ引き込まれているのがあきらかです。そして円柱の上の皿斗のついた大斗からは勇壮な雲形肘木がせり出して軒を支えています。旧三重塔の実際の建立年代は世紀末のようですが、以上のような飛鳥様式の特徴を持つことが「飛鳥の塔」と呼ばれる所以でしょう。


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当時の住職・井ノ上慶覚は塔の再建資金を集めるためのため各地で講演活動を行い、1965年、東京・岩波書店で幸田文と出会う。父露伴が『五重塔』を書き、その五重塔が心中のとばっちりの放火で炎上したとき、幸田文は見知らぬ人から電話で知らされ、炎上する塔を見に行っている。そういう素地があるところに、法輪寺の塔の消失のことをきく。谷中の五重塔と同様、住職が語る奈良の塔の最後もみごとなものだったようだ。塔は身をよじて、堪えるかにみえてたゆたい、揺らぎつつ、ゆらぎつつ、ついに堪えずどおっと倒れだした、と話された。幸田文が法輪寺の塔の再建に関わるようになっていくのは、ほとんど必然の結びつきに思えるほどで、再建に尽力する人たちに加わると、再建工事中には一時、斑鳩町に仮住まいまでして、工事の進展を見守った。1975年に塔は再建された。「父は紙の上に文字で塔を組み立てたが、私は実際に総檜で建てた塔を夢みた」と語っている。朝日新聞1972.12.9幸田文が法輪寺の三重塔の再建の話をはじめて聞いたのは1965年、65歳を目前にしたころだった。塔の完成は1975年、75歳をこえていました。

幸田文(19041990)

「人には運命を踏んで立つ力があるものだ」と、自らの子ども時代をつづった随筆「みそっかす」でそう書いた。幸田文は露伴の次女として、現在の東京都墨田区東向島に誕生。聡明でかわいがられた姉と一人息子で大事にされた弟に挟まれ、自分は「みそっかす」であると感じながら育つ。早くに母と姉を亡くし、病弱だった継母に代わって、少女の頃より露伴に家事一切を厳しくしつけられた。24歳で清酒問屋に嫁ぎ、一人娘(作家・青木玉さん)をもうけるが、33歳で離婚。実家へ戻って戦火の中で父を介護し、最期を看取った。父との思い出をつづって43歳で作家デビューを果たしたが、「私が文章を書く努力は私として最高のものではなかった」と断筆してしまう。父への追慕から離れ、「何でも書ける人間としてでなくては」と、向かった先は柳橋の芸者置屋だった。名を伏せて住み込みで働き、体当たりの経験をもとに小説「流れる」を発表。映画化されて日本芸術院賞も受賞するなど作家としての地位を高めた。続いて、結核で夭折した弟のことをつづった「おとうと」も好評となり、デビューして10年で早くも「幸田文全集」(中央公論社)が刊行されるなど、充実した執筆の日々を送る。

【宮大工棟梁西岡常一】(19081995

http://www.oninikike.com/

奈良県斑鳩町出身。祖父西岡常吉、父楢光はともに法隆寺の宮大工棟梁であった。彼も祖父の薫陶を受け棟梁となる法隆寺金堂の復元や法輪寺三重の塔、薬師寺金堂、同西塔などの再建を棟梁として手掛け、また途絶えていた「ヤリガンナ」などの道具の復活を行う。飛鳥時代から受け継がれていた寺院建築の技術を後世に伝えるなど「最後の宮大工」と称された文化財保存技術者、文化功労者、斑鳩町名誉町民

斑鳩の里観光案内所法隆寺iセンター

636-0116奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺1-8-250745-74-6800

http://www4.kcn.ne.jp/~ikaru-i/

宮大工棟梁「西岡常一の世界」の紹介・展示がされています。