ミナミアート(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「天王寺美術館」という言い方の方がピッタリなんだけど、



◆【大阪市立美術館】◆

543-0063大阪市天王寺区茶臼山町1-82(天王寺公園内)06-6771-4874

http://www.osaka-art-museum.jp/

大阪市立美術館は、市民が優れた美術文化に接する機会を提供し、生活に潤いをもたらすとともに、美術家の活動を助成し、広く大阪の文化振興に資することを目的として、昭和11年月に開館しました。美術館は天王寺公園の中に位置していますが、その敷地は住友家の本邸があった所で、美術館の建設を目的に庭園(慶沢園)とともに大阪市に寄贈されたものです。美術館は設立当初の本館と、平成年に美術館の正面地下に新設した地下展覧会室からなります。地上階、地下階からなり、本館陳列室では、特別展覧会やコレクション展示を開催しています。平常展示では購入や寄贈によって集まった日本・中国の絵画・彫刻・工芸など8000件をこえる収蔵品と、社寺などから寄託された作品を随時陳列しています。これらの作品には国宝や重要文化財に指定された作品も多く含まれています。また地下展覧会室では、常時様々な美術団体が主催する展覧会を開催しています。本館地下には美術館に付設されている美術研究所があり、素描、絵画、彫塑の実技研究を行っています。


にかて1


伝説の洋画家たち二科100年

平成27月12日(土)~11月日(日)

http://www.nika100th.com/

大正3年(1914)に誕生した二科展は戦時中の中断をはさみ、この秋に第100回を迎えます。これを記念して開催する今回の特別展では、過去の二科展出品作を通じて二科100年の歩みを振り返ります。二科100年、伝説の洋画家たちのたゆみない挑戦と切磋琢磨の歴史をどうぞご堪能ください。


「二科展」とは

二科展は大正3年(1914)から続く在野の公募展です。若き洋画家たちが文部省美術展覧会(文展)の監査に不満を抱き、洋画部門を新旧二科に分類することを願い出ますが聞き入れられなかったことに端を発します。官制アカデミズムの対極に位置する二科は海外の美術動向に敏感に反応し、多くの美術運動や分派を生み出しました。いわゆる官展が存在しない現在にあっても、日本の近現代美術史に大きな影響を与え続ける二科の存在意義とその在野精神は色あせることがありません。


にかて2


主な出品予定作家

有島生馬、石井柏亭、岡本太郎、岸田劉生、北川民次、国枝金三、国吉康雄、熊谷守一、黒田重太郎、小出楢重、古賀春江、児島善三郎、佐伯祐三、坂本繁二郎、里見勝蔵、関根正二、津田青楓、東郷青児、中川一政、中川紀元、鍋井克之、長谷川利行、林武、藤川勇造、藤田嗣治、堀内正和、正宗得三郎、松本竣介、村山槐多、安井曾太郎、山口長男、山下新太郎、湯浅一郎、吉原治良、萬鉄五郎、ジェレニェウスキー、マティス、ロートなど

★「二科会」

160-0022東京都新宿区新宿4-3-15レイフラット新宿501号室03-3354-6646

http://www.nika.or.jp/top/index.html

日本に最初の洋風美術団体「明治美術会」が1889年に創立され、7年後の1896年に東京美術学校に洋画科が設置されたのが、わが国の洋画壇の黎明であります。この黎明期にフランスに留学した新進の芸術家たちが帰朝するに従って、文部省展覧会「文展」の審査上に新・旧二派の対立が目立ってきましたので、新・旧を一科と二科とに分離するように政府に要求したのですが、時期尚早なりと却下されました。そのため1914年に新しい美術の確立を標榜して、石井柏亭・梅原龍三郎・有島生馬・坂本繁二郎らが文部省展覧会から分離して、在野の美術団体として「二科会」を結成し、つづいて安井曽太郎・正宗得三郎・熊谷守一等が参加しました。


にかて3


以後、二科会は常に新傾向の作風を吸収して岸田劉生・佐伯祐三・小出楢重・中川一政・関根正二・林武・古賀春江・藤田嗣治・松本俊介・長谷川利行・岡本太郎・東郷青児など美術史上欠かすことのできない多くの著名な芸術家を輩出し続けて発展をしてきました。また、二科会から派生した美術団体は、独立美術協会・一水会・行動美術協会・二紀会・一陽会等があります。さらに1979年には法人化が実現し、社団法人二科会として時代に即応した新しい歩みをはじめ、2007年からは六本木の国立新美術館に会場を移し、二科美術展覧会を開催してきました。そして本年4月1日より公益社団法人二科会として内閣府より移行認定され、二科会の次世代への歴史の一頁を開くことになりました。公益的芸術活動を通して、広く社会への貢献と芸術の普及をめざし、春には東京都美術館において会員の造形上の実験的創造と新人育成を旨とした春季展を行い、秋には国立新美術館を熟成度の高い制作の発表の場として二科美術展覧会を開催し、各主要都市にて巡回展を実施してまいります。2015年には二科会は百周年を迎えます。公益法人としてのあるべき姿と活力の実現に向けて歴史と伝統を継承しつつ、そして発展させるべく、会員一同気持ちを新たにして鋭意精進して参る決意であります。


にかて4


【参考「文展/帝展/日展」】

明治末期から昭和戦前期にかけて存在した官設公募美術展。フランスで毎年開催されたサロンに倣って生まれたもので、1907年に文部省美術展覧会(通称・文展)として始まった。19年に文部省管轄下の帝国美術院展覧会(帝展)に改まった。文展の設立には、先行して活動していた白馬会など、諸美術団体を国家主導のもとに統合する意図があった。文展発足時には日本画、西洋画、彫刻の三部門からなり、27年に美術工芸部門が新設されるまで工芸が排除されていた。35年には文部大臣松田源治が、在野の諸美術団体から有力画家を帝展審査員に加え、美術の国家統制を強化しようとして多くの紛糾を招く事態にもなった(松田改組と呼ばれる)。37年には帝展から文部省が主催する展覧会(新文展)となり、40年の紀元二千六百年奉祝展を挟み、44年には戦時特別文展が開催された。戦後、45年の秋には開催されなかったが、46年に日本美術展覧会(日展)として再出発し、現在に至る。文展・帝展のあり方は、つねに美術の制度への問いかけに晒されていた。結果的には、文展・帝展は、戦前までの日本において最も注目を集める美術展として、美術の大衆への普及に大きな役割を果たした。また一方で、そうした権威の存在は、14年に結成された二科会をはじめとする、反文展・反帝展を掲げた在野の諸美術団体やさまざまな美術運動が生まれる契機になったといえる。


にかて5


・・・日本の近代美術を飾った方々の作品が一堂に観られて、なかなか良かったです。