◆慶沢園
543-0063大阪市天王寺区茶臼山町1-108(天王寺公園内)
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008995.html
天王寺公園内にある純日本風の池泉回遊式庭園。大正15年(1926)、江戸時代からの大阪の豪商・住友家15代吉左衛門(号★春翠)から大阪市へ、本邸とともに寄贈されたもの。中島を浮かべた大池を中心に、三方に築山を築き変化に富んだ地形をつくり出している。周辺には園路や飛石、橋をめぐらせ、茶室や四阿・あずまやが配されている。★木津聿斎の設計にて、京都の名庭園師小川治兵衛の手により明治41年に着工し、大正7年に完成しました。「植治」こと★小川治兵衛は、明治中期から昭和初期にかけて東京の西園寺公望邸や平安神宮、円山公園など大規模な庭園を手掛け、近代造園のスタイルを確立したと称えられる造園家。庭園は当初、春翠によって「照代之恩恵祖先の余沢」の思いで「恵澤園」と名付けられたが、完工時には「慶沢園」に改名された。庭園内の奥から入り口に向かって見える大阪市立美術館の本館が、同じ時期に寄贈された住友家の本邸だった。
【参考】「和」のコラボレーション-住友春翠・日高胖・八木甚兵衛・小川治兵衛—
http://www.nikken.jp/ja/archives/history/03_01.html
須磨別邸や大阪図書館では、「西欧文明」に正面から取り組み、江戸期から30数年で正統的な西洋様式建築を実現するに至っています。しかし、同時に「和の文化」も探究されていました。住友春翠が日本文化に対する優れた美意識を持っていただけに、野口孫市や日高胖を中心とする臨時建築部では、如何に品格ある「和」の建築を実現するかということも重要な課題でした。彼らは、「和」と「洋」という二つの精神文化のあり方について、いわば楕円形が二つの中心を持つように、二つの精神文化の中心を持つダイナミズムとしてとらえていたようです。
★茶室「長生庵」は、予約をすれば利用できます。
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000103457.html
◆茶臼山
http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/bunkazai/tennoujikouen.html
天王寺公園内にある茶臼山は、ほんの標高26mの山ですが、そこに伝わる歴史はとても大きいのです。もとは前方後円墳と考えられ、河底池は周濠の痕跡とみられていました。また、四天王寺の別名「荒陵(あらはか)寺」も茶臼山古墳に由来し、境内にある長持形石棺の蓋も茶臼山に納められていたものと推測されていました。昭和61年(1986)に発掘調査が行われ、家康の本陣跡の建物や堀割が確認されましたが、従来いわれてきた全長200mの大前方後円墳という説には疑問符が付くことになりました。ただ、平安時代以前に築かれた盛土が古墳の築造時によく用いられた工法と類似するものであることが明らかにされ、古墳の可能性は残されています。
江戸幕府が豊臣方を滅ぼした大坂の役(大坂の陣)の重要な舞台でもあります。1614年(慶長19年)11月 ・大坂冬の陣では、徳川家康の本陣となり、翌1615年(慶長20年)5月には、真田幸村(本名は信繁)勢の本陣として、茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)が繰り広げられました。真田幸村は江戸の人々からも愛された戦国武将と言われます。大坂夏の陣で、徳川軍に深く攻め込み、その獅子奮迅な騎馬突撃や鉄砲隊を使った智将ぶりでは、敵将たちに賞賛をあびるほど。そんな幸村は、徳川軍へ寝返るよう再三誘われたものの“義”を貫き、強大な家康を窮地に陥れながらもついに戦場で命を落とします。その後江戸では『主君に最期まで忠義をつくし、“義”をもって武士の本懐を遂げた武将』 『家康が恐れた、戦国ただ一人の武将』として、講談となって、戦国の英雄・真田幸村の話が知れ渡ったといいます。
◆【大阪市立美術館】◆
543-0063大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1-82/06-6771-4874
http://www.osaka-art-museum.jp/
大正10年12月、住友家が★美術館建設を条件に茶臼山本邸寄付を大阪市に申し出る。本館は伊藤正文・海上静一によって設計された。1927年(昭和2年)12月より建設に着手され、途中工事が中断されるなどしながら10年近くの歳月を費やして1936年(昭和11年)4月完成した。鉄骨鉄筋コンクリート構造の地下1階、地上3階、塔屋1階付にして建築面積は4,033平方メートル、延床面積は12,716平方メートルである。1942年(昭和17年)、陸軍に接収され高射砲第3師団司令部が置かれ、1945年(昭和20年)より1947年(昭和22年)までは占領軍が接収したため活動休止を余儀なくされた。美術団体展を複数並行して行える地下展覧会室(4室)が1992年(平成4年)増築された。併設されている美術研究所では素描、絵画、彫塑の実技研究を行っており、ここから日本画、洋画、現代美術、建築など多くの作家を輩出してきた歴史がある。大阪市立美術品の所蔵品には個人コレクションの寄贈または購入によるものが多い。市による購入の他、主に大阪市民などのコレクターの寄付で8,000点を超える収蔵品が形成されてきた。仏教美術、エトルリアなど地中海文明の美術、充実した中国の絵画や書、日本の江戸期・明治以降の絵画、ほか金工・漆工・陶磁など貴重な工芸品を数多く有する東洋美術の宝庫である。代表的なものに、中国書画の阿部コレクション、中国石仏の山口コレクション、日本の蒔絵、根付、印籠等のカザール・コレクション、日本古美術の田万コレクションなどがある。また、展示品の中には大阪府を中心とした関西地区の社寺からの寄託品もある。日本の国公立美術館の中でも歴史は古く、美術団体展や大規模企画展の貸し会場となるだけではなくコレクションを持ち常設展示をする意向が当初からあった。
このほかに、大阪市は19世紀以降の近代美術・現代美術のコレクションを形成している。その中には、日本画の北野恒富・島成園、写真の安井仲治、現代美術の吉原治良など大阪を舞台に活躍した作家、佐伯祐三ら大阪にゆかりのある作家、モディリアーニやコンスタンティン・ブランクーシ、ゲルハルト・リヒターなど海外の重要な作家の作品がある。佐伯祐三の作品を一括して寄贈されたことがきっかけとなり、1988年、市制100年を記念して大阪市立近代美術館建設計画が発表され、以後コレクションの形成が進んできた。特に16億円で購入したモディリアーニの作品は話題となり議論を呼んだ。大阪市立近代美術館は、中之島にある国立国際美術館北隣の大阪大学医学部跡地に建設される予定だった。1998年には近代美術館基本計画委員会が「近代美術館基本計画」の答申を行い、延床面積24,000平方メートルの建物を、敷地面積16,900平方メートルの土地に整備費280億円で建設する計画だった。しかし、予定地から蔵屋敷跡が発掘されたことに加え、市が財政難に陥り建設費(約280億円)が捻出できず計画は凍結状態となった。2004年(平成16年)からは長堀通沿いの東急ハンズ心斎橋店傍にある出光美術館跡のスペースを、「大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室」という名前で使用して所蔵品の展示を行ってきた。建設予定地だった中之島の土地は時間貸し駐車場となっているが、2007年(平成19年)新年度予算案に約500万円を調査費として計上し、当初の事業計画を見直した上で約5年ぶりに建設に向けて事業が再開されることとなった。2010年には「近代美術館あり方検討委員会」が設置され、翌2011年には「大阪市立近代美術館整備計画(案)」が発表され、1998年の答申より規模は縮小されることになった。2012年11月25日には大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室は閉館している。2013年には大阪市の戦略会議が中之島への新たな美術館の建設を決定し、その中で天王寺の市立美術館を中之島の新美術館に統合して、古代から現代までを扱う総合美術館とすることも検討された。後に美術館の統合は行わず経営のみを統合することとなったが、この過程で新しい美術館の建設準備室は「近代美術館建設準備室」から「大阪新美術館建設準備室」へと名称を変更している。
・・・いつになれば着工されるのでしょうか?