・・・「茶の湯」で、どうしても避けて通れない「茶碗」があります。
◆「藤田美術館」
534-0026大阪市都島区網島町10-32/06-6351-0582
http://fujita-museum.or.jp/index.html
明治時代に活躍した実業家藤田傳三郎(1841~1912)と、その嗣子らが収集した東洋古美術品を所蔵し、春季と秋季に企画展示を行っています。
かかる国の宝は一個人の私有物として秘蔵するにあらず、広く世に公開し、同好の友とよろこびを分かち、またその道の研究の資料にせまほしく
藤田家の願いから、昭和29年(1954)に開館しました。明治の終わりから大正初期に建てられた藤田家の邸宅は、昭和20年(1945)の大阪大空襲により、その殆どを焼失しましたが、幸いにも、蔵や庭園の多宝塔などは類焼を免れました。展示室は、この蔵を改装したもので、内部には木材が多用され、窓からは陽の光が射し、自然の空気が流れる落ち着いた空間となっています。庭園には、東大寺の塔の礎石や、7世紀に建てられた山田寺(奈良県)の金堂礎石などが点在します。また、隣の太閤園や藤田邸跡公園では、当時の庭園の雰囲気を感じることができます。
【国宝「曜変天目茶碗」】
南宋時代(12~13世紀)高さ:6.8cm/口径:12.3cm/高台径:3.8cm
水戸徳川家に伝えられたもので、曜変の斑紋が外側にも現れている。1918年に藤田財閥の藤田平太郎が入手し、現在は藤田美術館所蔵。瑠璃色の曜変と呼ばれる斑紋は、まるで宇宙に浮かぶ星のように美しい輝きを放ち、品のある華やかさの中にも落ち着きがあります。土見せで小振りの削り高台から開いた形や、すっぽん口という口縁のくびれは天目形の特徴で、この茶碗には、腰付近に厚い釉溜り、口縁に覆輪が見られます。
◆【静嘉堂文庫美術館】◆
157-0076東京都世田谷区岡本2-23-1/03-5777-8600
静嘉堂は、岩﨑彌之助(1851~1908彌太郎の弟、三菱第二代社長)と岩﨑小彌太(1879~1945三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、国宝7点、重要文化財83点を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500点の東洋古美術品を収蔵しています。静嘉堂の名称は中国の古典『詩経』の大雅、既酔編の「籩豆静嘉」の句から採った彌之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整うとの意味です。明治期の西欧文化偏重の世相の中で、軽視されがちであった東洋固有の文化財を愛惜し、その散亡を怖れた岩﨑彌之助により明治20年(1887)頃から本格的に収集が開始され、さらに小彌太によって拡充されました。彌之助の収集が絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣など広い分野にわたるのに対して、小彌太は、特に中国陶磁を系統的に集めている点が特色となっています。
図書を中心とする文庫は、彌之助の恩師であり、明治を代表する歴史学者、重野安繹(成齋1827-1910)、次いで諸橋轍次(1883-1982)を文庫長に迎え、はじめは駿河台の岩崎家邸内、後に高輪邸(現在の開東閣)の別館に設けられ、継続して書籍の収集が行なわれました。大正13年(1924)、小彌太は父の17回忌に当たり、J・コンドル設計の納骨堂の側に現在の文庫を建て図書を収蔵しました。そして、昭和15年(1940)、それらの貴重な図書を広く公開して研究者の利用に供し、わが国文化の向上に寄与するために、図書・建物・土地等の一切と基金とを寄付して財団法人静嘉堂を設立しました。美術品は、昭和20年(1945)、小彌太逝去の後、その遺志によって、国宝・重要文化財を中心とする優品が孝子夫人から財団に寄贈され、昭和50年(1975)、孝子夫人の逝去に際し、同家に残されていた収蔵品の全てと鑑賞室等の施設が、岩﨑忠雄氏より寄贈されました。1977年(昭和52年)より静嘉堂文庫展示館で美術品の一般公開を行ってきましたが、静嘉堂創設百周年に際して新館が建設され、1992年(平成4)4月、「静嘉堂文庫美術館」が開館しました。世界に3点しか現存していない中国・南宋時代の国宝★「曜変天目(稲葉天目)」をはじめとする所蔵品を、年間4~5回の展覧会でテーマ別に公開しています。(曜変天目は常設展示ではありません。展示期間については美術館までお問い合わせください)
★静嘉堂文庫美術館は改修工事のため2014年3月17日~約1年半休館します。
●リニューアルオープン展 第一弾
金銀の系譜-宗達・光琳・抱一をめぐる美の世界-
2015年10月31日(土)~12月23日(水・祝)
http://www.seikado.or.jp/exhibition/next.html
国宝★俵屋宗達「源氏物語関屋・澪標図屏風」、重要文化財★尾形光琳「住之江蒔絵硯箱」が、このたび長い修理を終え静嘉堂に戻ってきました。今回、それぞれの代表作として名高いこの2点の新たな装いを修理後初披露するとともに、宗達・光琳・抱一にまつわる書画工芸の数々を一堂に展示いたします。新しい展示空間で、静嘉堂でしか見ることのできない極上の美の世界を、この機会にぜひご堪能ください。
★期間中、ラウンジにて国宝「曜変天目(稲葉天目)」、重文「油滴天目」を全期間展示いたします。自然光によって様々な表情を見せる曜変天目をお見逃しなく。
★静嘉堂文庫美術館では、ラウンジから富士山も御覧いただけます(天候に左右されます)。
【参考】 http://mimt.jp/guide/discount/seikado/
三菱一号館美術館(東京・丸の内)と、岩崎家ゆかりの東洋文庫ミュージアム(東京・本駒込)・静嘉堂文庫美術館(東京・世田谷区岡本)の3館は、2014年2月より、それぞれの持つ文化的資源の有効活用を図るとともに、芸術文化において広く社会に貢献することを目的として、連携した運営を行っております。
・・・行きたいなあ。
【国宝「曜変天目茶碗(稲葉天目)」】
建窯・宋時代(12~13世紀)高さ:6.8cm/口径:12.0cm/高台径:3.8cm
http://www.seikado.or.jp/040201.html
「曜変」とは元来「窯変」「容変」を意味し、唐物茶碗「土之物」の筆頭に分類格付けされてきた。「星」または「輝く」という意味をもつ「曜」の字を当てて文献に記されるようになるのは、十五世紀前期の頃からである。静嘉堂所蔵の曜変天目は、もと将軍家所蔵であったものを淀藩主★稲葉家が拝領し、代々秘蔵したことから「稲葉天目」と称される。産地は中国福建省建陽県に位置する建窯であり、窯址調査から、そのうちの蘆花坪窯である可能性が考えられているが、まだ曜変の明瞭な斑文を伴う陶片は出土していない。今日、世界中で現存する曜変天目茶碗は三点(京都・大徳寺龍光院、大阪・藤田美術館、静嘉堂)であり、斑文の美しさはそれぞれ別趣であるが、すべて寸法や器形が酷似している。いずれも焼成前に決定されているはずの素地土は最良のものが用いられ、高台の削り出しも精緻を極めていることから、曜変天目は、焼成中の偶然の所産であったばかりでなく、陶工が試行錯誤の果て、わずか完成をみた作品であった可能性もあるであろう。
◆大徳寺塔頭「龍光院」/603-8231京都市北区紫野大徳寺町14
初代筑前
福岡藩主の黒田長政が父、如水の菩提を弔うために建立、開基。作事奉行は黒田利長、黒田一成。孝高の法名・龍光院殿如水円清大居士より龍光院と称す。春屋宗園が当院で隠棲し間も無く亡くなった為に、事実上の開山となった江月宗玩は★小堀遠州などと親交があり、在世中には遠州が営んだ★孤篷庵も院内にあった。江月宗玩は津田宗及の子であり、龍光院に伝来する名物茶道具の多くは、宗及の遺愛品が相続によって龍光院の有に帰したと推測されている。かつて建立当時の龍光院は、現在の3倍ほどの敷地で数多くの建物が有ったが、明治の廃仏毀釈、神仏分離令の施行に際して破却の憂き目にあい、現在の姿となった。
★国宝「書院」
江戸時代前期(17世紀半ば)に建てられた寄棟造り・こけら葺の建物。北西隅に位置する四畳半台目茶室★「密庵席」は書院風茶室の代表例で、遠州作と伝えられる。建立の時期については寺院建立と同時期か、一説に、元大阪の天満辺りにあった黒田屋敷の茶室として建てられ、独立した建物だったともいう。大和の漆問屋、松屋源三郎家の松屋久政、久好、久重による「松屋会記」に当時の記録が残る。「密庵」席は西側の縁側境を明障子、南側の十畳間との境を襖で仕切り、東北側に手前座、北側壁の西寄りに床の間を設ける。この床の間とは別に、手前座の南側に奥行の浅い床の間を設ける。これは国宝の「密庵墨蹟」の掛け物を掛けるための専用の床である。
★国宝「密庵咸傑墨蹟(附 千利休消息)」
中国・宋代の禅僧・密庵咸傑の現存唯一の墨蹟とされる(「墨蹟」は禅宗高僧の筆跡を指す用語)。この法語は禅林(禅宗の寺院)はもとより千利休をはじめとする多くの茶人より多大な尊敬が払われ、龍光院書院内の茶室・密庵席には特にこの一幅のみを飾るための密庵床という場所が設けられている。附指定の利休の添状は墨蹟とともに伝来してきたものである。
【国宝「曜変(燿変)天目茶碗」】高さ:6.6cm/口径:12.1cm/高台径:3.8cm
中国・南宋時代。福建省の建窯(中国語版)の製品。曜変天目茶碗は黒釉の表面に大小の斑紋が現れ、虹のようにきらめくものである。曜変天目の遺品はきわめて稀少で、世界で日本にのみに伝世し、本碗を含め3碗ないし4碗が伝世するのみとされている。
・・・これまでも、これからも・・・「非公開」なのです。