硝子物語(7) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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◆【MIHO MUSEUM】◆

529-1814滋賀県甲賀市信楽町田代桃谷3000748-82-3411

http://www.miho.or.jp/index.htm


みほ1


神慈秀明会の会主・小山美秀子のコレクションを展示するため、1997年(平成)11月に開館。コレクションは、ギリシア、ローマ、エジプト、中近東、ガンダーラ、中国、日本など、幅広い地域と時代に渡る優品2000点以上が含まれている。コレクション形成に数百億円をかけたともいわれ、日本にある私立美術館のコレクションとしては有数のものである。


みほ2


現在の館長は辻惟雄(東京大学名誉教授、日本美術史専攻)。信楽町郊外の山中にある美術館は、「桃源郷」をイメージして造られている。レセプション棟から桜並木を通ってトンネルをくぐり、その先の吊り橋の向こうに展示館がある。利用者の移動の便のためと環境にあわせ、電気自動車がレセプション棟と展示館の間を往復している。建物設計は、ルーヴル美術館の「ガラスのピラミッド」、ワシントンのナショナル・ギャラリー東館で有名な建築家、イオ・ミン・ペイである。建築容積の8割が地下に埋没しているというこの建物は、周囲の自然景観保全に配慮したものである。設備設計は、東京国際フォーラム、横浜港大さん橋国際客船ターミナル、兵庫県立美術館など、多くの建築設備設計を行っている森村設計が担当している。


みほ3


・・・完全な形ではないので、より神秘的である。


みほ4


・・・遠路ここまで来た目的は、ガラスのファラオ頭部(前1400年―前1350年エジプト)だけではない。



「生誕三百年同い年の天才絵師若冲と蕪村」展

2015年日(土)~月30日(日)

正徳年(1716)は、尾形光琳が亡くなり、伊藤若冲と与謝蕪村というふたりの天才絵師が誕生した、江戸時代の画壇にとってひとつの画期となりました。伊藤若冲(享年85、1800年没)は、京都にある青物問屋の長男として生まれ、23歳の時に家業を継ぎますが、30代中頃には参禅して「若冲居士」の号を与えられ、40歳で隠居して絵を描くことに本格的に専念します。一方、与謝蕪村(享年68、1783年没)は、大坂の農家に生まれ、20歳頃に江戸へ出て俳諧を学びます。27歳の時、俳諧の師匠の逝去を機に、北関東や東北地方をおよそ10年間遊歴します。その後40歳頃から京都へうつり俳諧と絵画のふたつの分野で活躍しました。若冲は彩色鮮やかな花鳥図や動物を描いた水墨画を得意とし、蕪村は中国の文人画の技法による山水図や、簡単な筆遣いで俳句と絵が響き合う俳画を得意としていました。一見すると関連がないようですが、ふたりとも長崎から入ってきた中国・朝鮮絵画などを参考にしています。本展覧会は、伊藤若冲と与謝蕪村の生誕300年を記念して開催するもので、若冲と蕪村の代表作品はもちろん、新出作品を紹介するとともに、同時代の関連作品を加えて展示し、人物、山水、花鳥などの共通するモチーフによって対比させながら、彼らが生きた18世紀の京都の活気あふれる様相の最も輝かしい一断面をご覧いただきます。


みほ5


最も特筆すべきは、蕪村が晩年に居を移してからおよそ20年の間、二人が同じ京都の四条烏丸近辺の、歩いて10分以内のところに住んでいたということです。それでいて若冲と蕪村の間には、交友の記録がありません。共通の知人が多くいたことは確認されていますが、直接の交友関係を示す手紙や史料は、未だにひとつも発見されていないというのです。お互いの存在を知らなかったはずも、意識していなかったはずもないであろう二人が、なぜあえて“知らんぷり”ともとれる態度をとり続けたのかその答えは謎に包まれています。