・・・伏見まで来ましたので、やっぱりここを紹介しておかなければならないでしょう。(再掲です)
◆【三栖閘門資料館(旧・三栖閘門操作室)】◆
612-8225京都市伏見区葭島金井戸町官有地/075-605-5478
http://www.misu-museum.jp/index.html
陸上交通が発達していなかった江戸時代から明治時代には、京都~大阪間を結ぶ淀川舟運が重要な輸送手段となっていました。その流通拠点となっていた伏見港は「京都の玄関口」として繁栄していました。
淀川は昔から氾濫を繰り返し、そのたびに伏見周辺の住民は洪水に悩まされてきました。伏見周辺の治水の歴史は、豊臣秀吉が伏見に城下町を築いた時から始まり、土木行政の近代化が急速にすすんだ明治時代には、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケらの指導による大規模な治水工事が次つぎに実施されました。
1918年(大正7)に始まった淀川改修増補工事により、1922年(大正11)から着手した宇治川右岸の観月橋~三栖の間の築堤工事により、伏見港と宇治川との船の通航ができなくなりました。このため、淀川へとつながる宇治川と濠川との間を船が通航できるよう、1929(昭和4)3月31日、宇治川と濠川との合流点に三栖閘門を建設しました。三栖閘門の建設は、淀川改修増補工事のなかで最も大規模な工事であり、その費用は30万1,241円13銭と莫大な額でした。(当時の大卒初任給が約70円)
・・・これにて「伏見」とはお別れです。