◆「伏見土佐藩邸跡」/京都市伏見区南浜町
大倉家本宅の北西方向、月桂冠情報センターのある一帯には土佐藩邸があった。鳥羽伏見の戦いで土佐藩は、藩主から参戦を禁止されていたが、板垣退助の密命で一部の藩士が参戦した。その後、この場所には、伏水第三校(現在の伏見南浜小学校の前身)が設置された(1872年=明治5年)。大名門と呼ぶ門があり、軍役所や役場も設かれていたようだ。2009年12月26日には、伏見土佐藩邸跡を示す石碑を伏見観光協会と伏見納税協会青年部会が建立した。
◆「竜馬通り」
612-8364京都市伏見区竜馬通り
商店街の成り立ちは、1594年豊臣秀吉が桃山の地に伏見城を築き、中書島に遊郭をつくった約410年前にさかのぼる。そこで働く遊女たちに、着物や日常雑貨を売る店が自然発生的に生まれ、それぞれが情報を交換し合いながら仲間同士の結束を固め、やがて商店街の原型が出来上がってきた。
1960年代に南浜商栄会として組織され、今日の商店街の基礎が出来上がった。その頃、伏見の町に大型スーパーが続々と進出し、その影響が徐々に出始めると、当時の商店街青年部の人たちはもはや単組の力ではどうしようもない限界を感じて、商店街名も「納屋町に追いつけ、追い越せ」を合い言葉に、南納屋町商店街と改め、伏見商店街連盟の一員として大きな輪の中に入って行動するようになった。
1994年1月、長い間任意団体として活動してきた商店街も環境の整備や新しい事業の取り組みに対応するために、各種補助金の受け皿として振興組合設立の必要に迫られ、竜馬通り商店街振興組合と改称。設立登記を完了し、策定事業、実験的事業を試みながら、1996年よりハード事業5カ年計画を立案し、石畳舗装・ガス灯風街路灯建設・和風の統一看板、更に商店街の外壁を一軒ずつ京・町家風に造り替える整備事業が始まった。酒蔵のイメージに合わせて白壁と杉の焼板を使い、サッシュの窓には木の格子をはめ込んで明治のロマンを演出している。2001年よりソフト5カ年計画として、地元★龍谷大学経済学部の指導のもとに各種の調査事業やIT時代に即応できる商店街づくりをめざして、体質の改善と再生にむけて品揃えや店舗構成などを検討し、観光をテーマに再構築する為の第一歩を大きく踏み出したところです。
◆薩藩九烈士遺蹟表/伏見区南浜町(寺田屋東隣)
https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/index.html
文久2(1862)年4月23日、薩摩藩士有馬新七らは同藩主の父島津久光が上洛したことを機に、倒幕の兵を挙げようと寺田屋に集結したが、久光は鎮圧のため同藩士を派遣、藩士同士の闘争に及んだ。世にこれを寺田屋騒動という。この事件で死んだ9名は世に九烈士と称され、伏見大黒寺に葬られた。この碑は伏見寺田屋で闘死した薩摩藩士9名を、明治維新のさきがけとして顕彰する碑である。
◆「寺田屋」
612-8045京都市伏見区南浜町263/075-622-0243
https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/index.html
寺田屋は伏見の船宿。文久2(1862)年4月23日、薩摩藩急進派有馬新七(1825~62)以下35名が関白九条尚忠(1798~1871)と京都所司代の殺害を計画して集結した。薩摩藩は藩士を鎮圧に向かわせたが両者乱闘となり、有馬以下9名が死亡した(寺田屋騒動)。慶応2(1866)年正月21日坂本龍馬(1835~67)も伏見奉行所の捕方に襲われたが、難を逃れた。寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868年)に罹災し、焼失した。現在の建物はその後再建されたものである。
◆我国に於ける電気鉄道事業発祥の地/伏見区下油掛町(竹田街道)
https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu037.html
日本最初の電気鉄道である京都電気鉄道株式会社の伏見線は、明治28(1895)年に開業し、京都市下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線)南側を起点として、この地伏見町油掛通までの約6kmを走った。この石標は電気鉄道事業発祥地を示すものである。
・・・最後の最後、また「カエルちゃん」に出会いました。気をつけてカエルことにします。