◆「室生龍穴神社」
633-0421奈良県宇陀市室生区室生1297/0745-93-2177
http://www.city.uda.nara.jp/sin-kankou/guide/shrine_temple/s09.html
祭神:高龗神・竜神・竜王/創祀:不詳/文化財:本殿(県指定文化財)。本殿は春日造りの一間社にして朱塗りを施す(寛文11(1671)年建立)本殿の前方左右に、道主貴神社(市杵島姫命)と手力男神社(手力男命)の春日造り朱塗りの一間社が鎮座する。例祭:10月15日(室生寺からのお渡り)/由緒:★室生寺よりも古い歴史をもち、水の神「龍神」を祀る。奈良時代から平安時代にかけて朝廷からの勅使により雨乞いの神事が営まれ、室生寺は龍穴神社の神宮寺であった時代もある。当社の上流には龍神が住むと伝わる洞穴「妙吉祥龍穴」があり、古代から神聖な「磐境」とされてきた。室生では、「九穴八海」という伝説が伝えられ、九穴とは、三つの龍穴と六つの岩屋をいう。また、八海とは、五つの渕と三つの池をさしている。
※「日本紀略」の弘仁九年(818)秋の條に、「山城国貴布禰神社(鞍馬の貴船神社のこと)」とともに「大和国室生龍穴」において祈雨の神事を行ったと記載がある。神社としての記載は「三代実録」の貞観九年(867)にあり、それまでには神社が創建されていたと推測できる。
【高靇神】
イザナギとイザナミの国生み神話において、火の神「軻遇突智(カグツチ)」が生まれたときに、その火でイザナミが焼かれて亡くなってしまったことを嘆き悲しんだイザナギが、腰の剣で軻遇突智を3つに斬ってしまい、そこから諸々の神が生まれた中の一柱の神様である。水火を司る威徳を具え、晴雨を調節する神と崇められてきた神で、古来龍神もしくは龍王とも呼ばれていた。
【九穴】
1)龍穴神社の妙吉祥龍穴2)室生寺背後の山中にある龍穴3)長谷川橋付近の西谷にある龍穴(以上の三龍穴と以下の6つ)4)天之岩戸5)世渡岩屋6)護摩岩屋7)軍茶利の岩屋8)鬼岩屋9)仙人窟
【八海】1)爪出淵(龍穴神社前の川を300m程下った所)2)毒摩淵(爪出淵より更に下流)3)穴の淵(如意山の西に有る)4)悪龍の淵5)袈裟の淵6)龍王の池7)鏡の池8)衣の池
・・・「天岩戸」がありました。
◆「吉祥竜穴」
神社後方の室生山中には「室生九生九穴」と称される洞窟があるとされ、そのなかで「室一山記」に「東名妙吉祥龍穴、西名沙遮羅夷吉祥龍穴、中光尾號持法吉祥龍穴」の三龍穴が名高いと記されている。これらの三龍穴について詳細はわからないが、現在は当社のはずれから渓流沿いに神社後方へ700m登って行くと、「吉祥龍穴」の入口があり、「ここは室生龍穴神社境内です。」と書かれている。東側から「招龍瀑(龍の馬場)」と呼ばれる滝が岩盤を滑るように流れ、その先の谷に向かって急な崖の階段を30mぐらい下ると拝所がある。
その対岸の岸壁に大きな洞窟があり、龍王が篭る龍穴として丁寧に祀られている。一帯は古代から磐境(いわさか)神の鎮座する区域とされ、厳粛な雰囲気が漂います。この龍穴は須勢理姫の籠もった旧跡とされ、延暦9年(790)赤埴の★「白岩神社」に遷座したと伝わります。
・・・「宇陀の里」巡りで訪問した「仏隆寺」に隣接していました。
【白岩神社】/奈良県宇陀市榛原赤埴字向岩
祭神を須勢理姫命としているが、西側に隣接する仏隆寺(真言宗室生寺末)の鎮守として創祀されたといわれ、社地背後に迫る白く露出した岸壁の下に創祀された室生の龍穴神社と同じ水神(善如竜王)を祀った社だと考えられる。拝殿・本殿ともに数年前の台風で倒壊し、その後新しく建て直された。境内には杉などの巨木が生い茂っていたが多くがこの台風で倒れ、伐採された。社前の石燈籠に「善如龍王」(文政十二年・1829)と陰刻銘があるのは、明治の神仏分離以前当社祭神を水神としたものと思われる。龍王とは、本来密教で雨を祈る本尊とされた。神仏分離に際して祭神を須勢理姫命にされたことについて、「大和志」は、命が室生の岩屋に入り、岩戸の口を赤埴でふさいだ故事によるとあり、延暦九年(790)室生の龍穴神社を当社に遷祀、赤埴明神と称したとある。(奈良県の地名)その後、当地の豪族赤埴氏の氏神として崇敬されてきたともいわれる。
【赤埴(アカバネ)】
「大和志料」に須勢理姫命が室生の岩屋に入り、岩戸の口を赤埴でふさいだ故事によるとあり、延暦9年(790)室生★龍穴神社を当所に遷祀、赤埴明神と称したとあります。その後、当地の豪族赤埴氏の氏神として崇敬されてきたともいわれています。赤埴氏が赤埴庄をおさめていました。「赤埴」の現地発音はアカバネ。「赤羽」とも書きます。地名の由来は、「万葉集」巻7に「倭の宇陀の真赤土」(1376)と詠まれている赤紅色の土質にちなむものといわれています。「赤埴」は赤穂・赤部・丹生・羽田と同義の地名であろうと思われます。「埴」は「填」「垣」に誤写されたりしています。近世初期は赤埴村(の一村)でしたが、元禄15年(1702)上・下二村に分割したが明治9年(1876)二村合併赤埴村と復称しました。
・・・帰り道、おもわず自動車を停めました。
【ととり「福丸の里」笑顔公園】
室生砥取の里では、昔から「おおつごもり(大晦日)」に「福丸」を焚き一年の感謝と新年の幸せを願う行事を行ってきました。近年の過疎化、高齢化で途絶えていた「福丸」と「燈火会(とうかえ)」を融合させて、一夜限りの炎の祭典を行っています。(砥取福丸・燈火会保存会0745-92-2864)
古来、一日の終わりは日没とされたため、一年の終わりは大晦日の日暮れでした。年迎えの本番が始まるのは、大晦日の夕方から。薄暗がりのなか、大和高原と、隣接する三重県伊賀地方では、新年の迎え火行事「福丸迎え」がよく行われてきました。家ごと、または数軒ごとに、広場や辻、田んぼ、境内などの決まった場所で(餅やご飯などのお供えをする家も)、松明や藁、竹などに火を灯す。そして火が最高潮になった頃、「福丸、こっこー(福の神よ、来い)」と連呼して(唱えない家も)、提灯や松明に移して家に福火を持ち帰る行事です。「福丸」の「丸」については、福の神や船の名前、「福、参る」の訛りなど、諸説ありますが、私は少なくとも江戸時代に、「福丸」の原型の唱え文句が大和の随所で広まったと考えています(大和高原における、他の年迎え行事、カギヒキの唱え歌から類推)。火を通して、新年に外から神をお迎えし、家内に招く祭祀。持ち帰った火は、まず神棚や仏壇など、家内の数々の灯明に灯し、その後、お雑煮をつくるための神聖な火として、竈(現在はコンロ)にも点ける家もあります(お雑煮の水は、山水や井戸水の若水を使用)。大和高原で行われる火の祭祀の多くは、いつも山とかかわってきました。年迎え行事の基層にも、山の神の神事がしっかりと根付いています。山の神を招き降ろした木に、火を放つことで、火は山の霊威そのものとなるのです。年迎え行事の詳細は、家ごとによって非常に異なります。古老たちにお話を伺っていると、代々隣家同士で暮らし、親戚同様に交流する仲であっても、祭祀の違いにお互い驚き合ったりすることが少なくありません。それほどに山の神には秘儀的要素が濃厚なのでしょう。正月の一般的なイメージである初々しさや清らかさを超えて、ダイナミックな胎動を生み出してくれる火。
旧・室生村砥取の「福丸」は、そんなプリミティヴな火のエネルギーを存分に浴びることのできる貴重な年迎え祭祀です。田んぼに、竹を約30本、直径2~3mほどに立ててワラで周りを化粧し、夕暮れとともに点火。大和高原各地を探しても、10mの火柱が立つほどの大きな福丸は、ここ砥取以外で見ることができません。砥取では、福丸の火で、子どもの書き初めを飛ばす風習もあることから、小正月の「とんど(どんど)」と習合している側面もあるのでしょう。とにかく、この大規模な福丸を長く継承してくださった砥取の先人の方々、そして燈火会として建て直しをされた「砥取福丸・燈火会保存会」の皆さんのご尽力には、本当に感謝が絶えません。現代に蘇った砥取の福丸・燈火会は、地域の方々のみならず、移住者や訪問者にとっても、大きな気づきを与えてくれています。まず何よりも、地域の貴重な伝統行事をベースにしていることで、地域の生活文化を発見する機会となっていること。そして、かつてアジア諸国で重要視されてきた営み、そしてこれからの日本で非常に重要になってくるであろう営み、「共同作業」の機会を与えてくれていることです。江戸時代の日本は、自給自足をベースにした高度な生活文化が築かれた国として、今なお世界に類のない時代として高く評価されています。その生活は、大変な労力が必要とされるものでしたが、当時の文献から、「共同作業」によって朗らかに生活を切り盛りしている様子がうかがわれます。一人では大変なことも、みんなでやれば「いとも楽しい遊び」になっていく。その神髄を、私たちの祖先は知り尽くしていたのです。アジア諸国の家庭内祭祀の真骨頂の一つ、年迎え行事。年々、簡素化・廃止される一方の日本の年迎え行事ですが、その忘却に拍車をかけたのは「日本人の大晦日は紅白歌合戦」というマスコミの洗脳でした。地域ごと、家庭ごとに多様な年迎えの設えがあった、かつての日本。その根源に燃えさかる、時空を超えて太古から続く生命の火は、まだ完全に消えたわけではありません。大晦日、新しい年の迎え。室生の砥取で、原初の火を分かち合いませんか。移住者仲間も多くかかわり、竹アーティストの三橋玄さんデザインのサプライズな竹アートも見もの。龍穴神社のある室生にふさわしい造形作品です。