かくれ里(16) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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1624-1643「笹岡家住宅」/重文指定年月日:19680425

633-2123宇陀市大宇陀藤井477

http://www.city.uda.nara.jp/bunkazai/kyouiku/bunka/bunkazai/kunishitei.html


ささお1


町域の東端近くにあって古くからこの地の大庄屋を代々勤めてきた家柄である。この住宅は17世紀前半の建立と考えられる古い遺例で、内部の構造は豪壮である。桁行16.6m,梁間12.4mの入母屋造り。茅葺きの典型的な大和風民家で,背面と側面に棧瓦葺きの庇をつけている一部撤去されているが、古い農家を知る貴重なものである。表門は文化4年(1807)の建築、屋敷構の景観を作っている。

◆「伊那佐郵人旧伊那佐郵便局)」

633-0235宇陀市榛原比布13120745-88-9064

http://inasa.pupu.jp/


ささお2


旧伊那佐郵便局は昭和年に建築された旧特定郵便局舎です。この建物を見つけたのは平成22年の春。それからたくさんの人の助けを借りて、平成24年の春に現在の形でオープンしました。伊那佐郵便局は旧道沿いに位置し、当時はたくさんの商店や伊那佐村の役場、診療所、駐在所がありましたが、現在この道沿いに残る当時の建物はこの郵便局と数軒のみ。たくさんの思い(手紙や電話)が集まり、伊那佐村の隅々に届けられました。また伊那佐村からたくさんの思いが、村外から日本中に届けられました。またこうして息を吹き返した建物が「人」「モノ」「思い」をつなぐ場所でありますように。そんな思いを込めて「伊那佐郵人(いなさゆうと)」は作られています。

NEWS奈良・宇陀の旧伊那佐郵便局に国有形文化財の登録証・プレート伝達

昭和年に建設された旧伊那佐郵便局(宇陀市榛原比布)が国登録有形文化財となり、現地で登録証とプレート伝達式が行われた。子育てのため大和郡山市から移住した際、売りに出されていたボロボロの旧郵便局を見つけて買い取り、地元の協力で改修、現在はカフェ「伊那佐郵人(いなさゆうと)」を運営する所有者、松田麻由子さん(33)は、「古い建物を残そうという機運が高まれば」と話した。同郵便局は、旧伊那佐村の地元名士が土地を無償提供し、3等郵便局として昭和9年に開局。木造2階建ての寄棟造桟瓦葺で、正面玄関のひさしの欄間や、鬼瓦の紋は郵便番号をモチーフにした印象的なデザインだ。郵便局の事務室と居住部分に分かれており、施工者の地元一家が夜間受信のために居住。炊事場や風呂も増築された。49年に郵便局が移転したのに伴って閉鎖後は空き家になり、売りに出された。平成23年、旧郵便局の存在を知った松田さんは「買い手がつかなければ壊される」と聞き、「地元の交流拠点にしたい」と保存に向け、情報発信や行政との折衝を重ねた。何とか買い取った松田さんは、国や市のほか地元の協力も得て、約1年かけて改修。1階は、合併で消えた地名を冠した昼限定のカフェ「伊那佐郵人」として25年春にオープンさせ、2階には雑貨店が入居。地域の交流の場としても親しまれている。伝達式では、宇陀市の石増次郎教育長が「古い建物の活用事例として注目を集める建物になった。今後も建造物の再生活用のパイオニアとして、活躍を期待します」とエール。松田さんは「たくさんの支援でここまで来られた。近代建築を残していく契機になれば」と話していた。2015.2.18産経ニュースより)

◆「八咫烏神社」/633-0234宇陀市榛原高塚42

http://www.yatagarasujinja.net/index.html


ささお3


延喜式神名帳に記された式内社。『続日本紀』によると、「慶雲二年(705)九月丙戌 置八咫烏社于大倭国宇太郡祭之(大倭國宇太郡に八咫烏社を祭る)」と創祀の記述が残されています。祭神:建角身命創祀:奈良朝以前本殿付近にある石神殿は、当社荒廃退転当時の御神体を泰安していた本殿であった。例祭:11月3日夜宮祭大伴氏や八咫烏の子孫といわれる賀茂氏などの氏族が祭祀に努力したと伝える。境内には、ヘディングする八咫烏像があり、近年、スポーツの勝利や安全を祈願する神社として名を馳せている。


ささお4


◆「文祢麻呂墓」/宇陀市榛原区八滝

http://www.emuseum.jp/detail/100202/000/000%3Fmode%3Ddetail%26d_lang%3Dja%26s_lang%3Dja%26class%3D%26title%3D%26c_e%3D%26region%3D%26era%3D%26century%3D%26cptype%3D%26owner%3D%26pos%3D113%26num%3D8

江戸時代後期の天保年(1831)、大和国宇陀郡八滝村で耕作中の農民が発見した火葬墓の一括出土品。土中から出てきた銅製の箱に、墓誌を刻んだ銅板が納められ、かたわらからは金銅製の壺が出土し、その中には火葬骨の灰が詰まったガラス製(緑瑠璃)の壺が入っていた。また銅箱や金銅壺の周囲には多量の木炭があったという。こうした発見の経緯は、詳しく書かれた代官所の調書によって知ることができる。出土した墓誌から、慶雲4年(707)の月に亡くなった文祢麻呂の墓であることが判明した。文祢麻呂は渡来系の西文(かわちのあや)氏から出た武人で、『日本書紀』や『続日本紀』にもその名が見られ、壬申の乱(672年)で大海人皇子(おおあまのおうじ。後の天武天皇)に従って活躍し、没後に正四位上を贈られている。火葬の習慣は仏教の伝来とともに伝わり、やがて墓に墓誌を納める大陸の風習も取り入れられた。文祢麻呂の墓誌は、火葬墓に伴う墓誌としては、年代が明らかな最古の例である。また、火葬骨を納める骨蔵器に緑瑠璃壺が用いられるのはきわめてまれで、外容器として用いられた金銅壺の優品とともに、壬申の乱の功労者にふさわしい埋葬法であったといえよう。墓誌は、鋳銅板の表面に「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻/呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」の銘文が刻まれている。外容器に用いられた金銅壺は、低い高台の身と、宝珠形のつまみがついた蓋からなり、内部には緑瑠璃壺を包んでいた布の痕跡があった。緑瑠璃壺は平底の身に、やはり宝珠形のつまみをもつ蓋が付いている。遺灰をガラス容器に納め、容器を布で包んでから外容器に収納する方法は、仏舎利(釈迦の骨)の納置法に準じていることが知られる。

http://www.city.uda.nara.jp/udakikimanyou/movie/movie11.html


ささお5


◆「榛原高井郵便局

633-0212宇陀市榛原高井461-3/0745-82-1200

http://map.japanpost.jp/pc/syousai.php?id=300145045000

【参考】宇陀市は標高300mほど。奈良盆地とくらべ標高が高いので、6月下旬が蛍のピークとなります。これから7月中旬まで宇陀市のあちらこちらで蛍を見ることができますよ。それにあわせて蛍の鑑賞会も開催されます。夏だ。蛍だ。高井へ行こう。「蛍の夕べ」。

日時:2014年6月22日(日)15時~21時ごろ

場所:宇陀市榛原高井生活改善センター(蛍の観察は矢谷川周辺)


・・・残念ながら、今年も「ホタル」を観る機会を逃してしまいました。