かくれ里(13) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

◆「旧柳生藩家老屋敷

630-1237奈良市柳生町155-10742-94-0002

http://www3.pref.nara.jp/kankou/1308.htm


かろう1


この屋敷は旧一万石柳生藩の国家老であった小山田主鈴(17811856)の旧隠居屋敷でした。小山田主鈴は陸奥の国白河藩天栄村(現在の福島県)の郷士の家に生まれた。どういう経緯があったのか25歳の時、江戸で柳生藩に足軽として雇われた。小山田主鈴はその才能を認められ文政9年(1826)45歳の時江戸より柳生藩の国家老として柳生に移った。柳生藩は定府であり藩主は始祖石州斎宗巌を除いて参勤交代はせず将軍家剣術師範としてほとんど江戸住まいで国元へ帰ることはなかった。小山田主鈴は南都の藩主の屋敷を預かり、幕末の藩の財政再建を堂島の米相場で成功した。柳生藩は柳生の山間地以外に現在の奈良市の南方に三ヶ村、天理市北部に十二ヶ村を領有していたので現在の「ならまちセンター(奈良市東寺林町)」に南都屋敷を建てた。柳生藩南都屋敷は明治になり奈良町役場になったが明治31年(1892)奈良市が市制施行で誕生し、奈良市役所の庁舎となった。度建てなおされ昭和52年(1979)までそこにあったが奈良市二条大通南一丁目の現在の庁舎に引っ越した。小山田主鈴は弘化年(1846)家督を譲って退隠、柳生十代藩主柳生俊章から賜った地所に隠居屋敷を建てて余生を送った。


かろう2


豪壮な石垣は、天保12年(1841)尾張の石工が築いた。小山田主鈴は安政3年(1856)柳生で死没した。小山田主鈴の子孫は明治維新後も昭和の中頃までこの屋敷に住んでおられたが昭和31年(1956)奈良市大森町に移られ、屋敷は地元の岡田弥惣治氏の手に渡ったが、昭和39年(1964)作家山岡宗八さんの所有となった。昭和48年(1973)放映されたNHK大河ドラマ「春の坂道」の構想ここで練られた。昭和55年(1983)、山岡さんの遺志により、遺族の山岡賢二・雅子夫妻から奈良市に寄贈された。

山岡荘八】(1907~1978

新潟県生まれ。本名藤野庄蔵。高等小学校中退後14歳で上京長谷川伸に師事。1933年雑誌『大衆倶楽部』を創刊36年頃から大衆小説を書きはじめた。1938年、懸賞小説に入選し文壇デビュー。第次世界大戦中の言動や『御盾』(1943~45)などの時局小説のため公職追放となったが50年解除。1950年から新聞に『徳川家康』を連載開始。18年がかりで完成したこの大河小説は「経営トラの巻」としても幅広い読者を獲得、五千万部突破という戦後、最大のベストセラーとなる。同作品で「吉川英治文学賞」を受賞


かろう3


『春の坂道』は、1971年日から12月26日まで放送されたNHK大河ドラマ作。全52回。山岡荘八の書き下ろし小説『春の坂道』(後に『柳生宗矩』と改題)、および小説『徳川家康』を原作として杉山義法が脚色。泰平の世を築くために遠くて険しい「春の坂道」を歩んでいく剣術家・柳生但馬守宗矩の生涯を、家康・秀忠・家光の徳川三代の時代を背景に、「一紙半銭も私せず」の剣禅一如の精神とともに描いた作品。


かろう4


【参考】『春の坂道』改題

柳生宗矩(1)鷹と蛙の巻

世をすねる。そんな思いが確かにあった。だが巨星徳川家康のひたむきな姿に接したとき、宗矩の眼は豁然と開けた。この日、迷いは木端微塵に砕け散った。文禄3年(1594)5月3日、家康が父石舟斎に入門した日が、又右衛門宗矩の新たな求道への旅立ちの日でもあった。剣禅一如をなし遂げた男の生涯。

柳生宗矩(2)柳生の桃の巻

妖しい雲が西へとなびく。豊臣秀吉が波乱万丈の生を終えたあとには、束の間の平安をはらって、欲望の嵐が吹きすさび始めた。秀頼を擁立する石田三成の関西勢と、太閤子飼の武将をも含めた関東勢の、関ヶ原での激突はもはや避けがたい。その慌ただしいなか、若き宗矩は、懸命に泰平への道を探る。

柳生宗矩(3)人間曼陀羅の巻

徳川の基礎はなった。もはやこの世に戦はなく、家康の「道義立国」はいよいよ実現の緒についた、と誰もが思った。だが、その平安の底で、じつは不平不満がどす黒い渦をまき始めていたのだ。巨大城大坂城に集まる牢人の群れ。彼らは豊臣の遺孤秀頼を押し立て、破滅の道へ無謀な行軍を開始する。

柳生宗矩(4)散る花咲く花の巻

世は生まれながらの将軍家光の時代になった。その資性は英邁ながら若さゆえの逸脱も多く、前将軍秀忠から後事を托された宗矩の責任は重い。この若き貴公子をいかに名将軍に育てるか、多難の仕事が彼の双肩にのしかかる。家康、秀忠、家光3代の師範として剣禅一如を見事に生きた柳生の鷹の生涯、完結


かろう5


柳生宗矩の名言】

人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり。

刀剣短くば一歩を進めて長くすべし。

人を殺す刀、かえってすなわち人を活かす剣なりとは、それ乱れたる世には、ゆえなき者多く死するなり。乱れたる世を治める為に、殺人刀を用いて、己に治まる時は、殺人刀すなわち活人剣ならずや。

無刀とて、必ずしも人の刀をとらずして敵わぬという儀にあらず。また刀を取りて見せて、これを名誉にせんにてもなし。わが刀なき時、人に斬られじとの無刀なり。

兵法は人を斬るとばかり思うは、僻事(間違い)なり。人を斬るにはあらず、悪を殺すなり。

治まれる時乱を忘れざる、これ兵法なり。

刀二つにて使う兵法は、負くるも一人、勝つも一人のみなり。これはいと小さき兵法なり。勝負ともに、その得失わずかなり。一人勝ちて天下かち、一人負けて天下まく、これ大なる兵法なり。

平常心をもって、一切のことをなす人。これを名人と言うなり。


・・・これにて、「柳生の里」とはお別れです。