★寺町地区
http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/siminsanka/matidukuri/009rekibunzone/009teramati.html
尼崎駅から出屋敷駅に向う阪神電車の高架の南側に寺々の堂宇や塔が建ち並ぶ風情は、車道を一筋中に入るだけで、周囲の喧騒や普段イメージしている"尼崎"とは隔世の感がします。本興寺の開山堂・三光堂(大物浦から移築された神社)・大方丈・長遠寺の本堂と多宝塔等の桃山時代の建造物は国指定の重要文化財7件をはじめ、県・市指定の文化財も多く残されています。元和3年(1617)尼崎藩主戸田氏鉄(うじかね)が幕府から命令を受けて尼崎城の築城にとりかかり、神崎川河口付近の大物から蓬川河口付近:出屋敷辺り一帯を城下町として建設【町割り】するにあたり散在していた寺院を尼崎城下町の西北に集めて寺町をつくります。
寺町の区画は当初から殆んど変化が無く現在約3.9ヘクタールの区域に11ヶ寺が集中し、甍を連ねる寺町の様子は城下町の面影を今に伝えています。「秀吉由緒の寺」・「南朝忠臣:秦武文遺跡」・「佐々成政公墳墓之地」を示す石碑が山門脇に立てられているのを見かけます。町の防備上の要地を塀で囲われた寺院で固める事で、臨戦時には堀や土塁代りの砦として機能する出城の様にも見えます。平成元年に都市美形成地域に指定して、石畳風の舗装など修景整備が進められて寺町地域散策道が出来ています。
南北朝期には2代将軍足利義詮が半年間在陣し大覚寺城と呼ばれた、月峯山大覚寺では例年2月3日の「節分祭」には大覚寺狂言が行なわれます。永禄年間(1558-70)覚阿上人開基を伝える平陽山安谷院善通寺(時宗)の本堂は宝永3年(1706)大修理を受けているが、移築当時の様式を其のまま伝えているようです。後醍醐天皇の皇子:尊良(たかなが)親王が土佐に配流された時、南朝方の忠臣:秦武文がお供しましたが、妃を土佐に迎える途中尼崎で海賊に奪われ、遂に自決したという秘話を伝えています。
・・・寺町の煉瓦塀は防火壁として築かれたものでしょうか。お寺と煉瓦って、意外とマッチしますね。さて、次は煉瓦の建築物です。
◆【尼信博物館(尼信会館)】◆
660-0864尼崎市東桜木町3/06-6413-1121
http://www.amashin.co.jp/kaikan/
尼信会館前の煉瓦造りの建物は、当金庫が大正10年に創業した当時の本店です。明治時代に建築された当初の赤煉瓦をそのまま使って、昭和47年に復元したものです。尼信会館は、尼崎信用金庫が創業80周年の記念事業の一環として、地域の発展と地域文化向上のお役に立ちたいと願い、平成13年6月1日に開設いたしました。展示いたしております資料は、尼崎藩主桜井松平家ゆかりの重要文化財「太刀 銘守家」を初めとして、尼崎市指定文化財である歴史的に貴重な資料を数多く常設展示するとともに、尼崎信用金庫が保有する、世界170ヵ国の金貨銀貨をコインミュージアムにおいて常設展示いたしております。また、展示施設の一部を、地域の芸術、文化の発信基地としてご利用いただけるスペースといたしております。
・・・まだまだ「あましん」あります。