待望のミュージアム(30) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・明治の建築家「辰野金吾18541919)」さんと「本野精吾18821944)」さん、名前が良く似ているのでおもしろいなあと思っていました。


INAX REPORT

http://inaxreport.info/index.html

「建築から生活文化を探究する季刊誌」として、ライフスタイルから街づくりまで、建築を総合的に考えるLIXIL発行の建築専門誌です。特集形式で構成しており、普遍性のあるテーマを2~3年クールで継続的にじっくり取り組むのが当誌の特長です。建築に興味のある方ならどなたもが「見て、読んで、楽しく、タメになる」視点で編集しています。

・・・その「No171」に「本野精吾」さんが特集されていました。

http://inaxreport.info/backnumber.html


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本野精吾

http://inaxreport.info/no171/feature1.html

明治の建築界には上流階級出身者が多く、本野精吾も父は鍋島藩の出で大蔵省に勤務し、後に読売新聞社の創業者として活躍した本野盛亨。兄弟も外務大臣、二代目読売新聞社社長、京都帝都大学教授など、いずれも社会的地位が高く、実績を残しています。本野は盛亨の五男として明治15年(1882)、東京に生まれ、明治36年(1903)、東京帝国大学建築科に入学します。同級生に岡田信一郎、横浜勉、松井貴太郎などがいました。卒業後は三菱合資会社地所部(現・三菱地所)に勤務し、保岡勝也の下で設計のスタートを切ります。世はまさに様式主義全盛でしたが、本野も担当した「丸の内第12号館」などに、その片鱗がうかがえます。ところが、明治41年(1908)、大きな転機に直面します。恩師・武田五一が京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の教授職に招聘し、本野はそれを受けました。そして翌明治42年(1909)から約2年間、“図案学研究”のため、ヨーロッパ(主にベルリン)に留学します。この年間が本野の人生を大きく方向づけたようです。特にP.ベーレンスの建築に感銘し、工業化を前提としたデザイン革新活動に強い影響を受け、明治44年(1911)帰国します。帰国後、初めて設計したのが、「西陣織物館」です。


・・・ということで、まずは「西陣織物会館」へ。

1915「西陣織物館(現・京都市考古資料館)」

「マッチ箱のようだ」。竣工当時、人々は驚きを持ってこの建物をそう表現したそうです。留学から帰国して最初に設計されたこの建物は、入り口の円柱のあるポーチなどから一見様式的風に見えますが、建物正面全体の外観やそのディテールを見ると、装飾を排したモダニズムの手法でまとめられています。特に、屋内階段の手摺子のデザイン、3階貴賓室の天井や壁面、暖炉には幾何学的な形態が用いられ、モダニズムの萌芽を随所に見ることができます。この建物は、昭和59年(1984)、京都市登録有形文化財に登録されています。


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その後、中村鎮式コンクリートブロックを使用した「本野精吾自邸」などの住宅、「京都工芸繊維大学本館」など、建築作品は生涯で10点余りしか残していません。その反面、図案科教授として、インテリア、家具、舞台デザイン、グラフィックデザイン、服飾デザインなどデザイン全般のさまざまな教育や活動にかかわって実績を残しました。また、生来の多趣味を突き詰める性格も手伝って、バイオリン演奏や社交ダンス、エスペラント語など、さまざまなことを試み、それを極めたと言われています。京都人には育ちの良い、ハイカラなモダンボーイと受け取られていた面もあったようです。一方、「日本インターナショナル建築会」では設立メンバーの一人として大いに活躍しました。当時、関西で発足した最大の建築運動団体で、気候風土による“ローカリティ”を考慮した“インターナショナル建築”を目指しました。最盛期には150名以上の会員を擁したといわれています。



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本野は建築家としては寡作でしたが、日本における最初期のモダニズム建築にトライした建築家であることは事実です。今も生き続けている4作品「西陣織物館」、「本野精吾自邸」、「鶴巻鶴一邸」、「京都高等工芸学校本館」には、その萌芽が垣間見えます。


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・・・幸い「鶴巻鶴一邸」一般公開がありましたので、さっそく。

◆地下鉄東西線「御陵駅」/京都市山科区御陵原西町

「御陵」とは天皇・皇后の墓所のことで、この駅名は駅の東300mほどに天智天皇山科陵があることに由来する。番出入口横に「琵琶湖疏水煉瓦工場跡石碑」が設置されている。


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【参考】「琵琶湖疏水煉瓦工場跡石碑

京都市営地下鉄御陵駅の2番出入り口を地上に出てすぐ右手。京都の近代土木史に残る大事業、琵琶湖疏水の建設を支えた歴史を示す石碑がある。そばには、名残として工場で製造された古びた赤れんが七個が据えられている。説明板などによると、国内には明治時代の当時、疏水建設に必要な大量のれんがを製造する窯がなかったため、御陵原西町一帯の約四・四ヘクタールの敷地に十二カ所の登り窯が設置された。一帯で採取した土を使い、一八八六(明治十九)年の操業開始から閉鎖までの約三年間で約千三百七十万個を焼き、疏水のトンネルなどに使われた。当時の資料によると、工場の跡地は、陸軍が一時、火薬製造所の建設候補地に考えていたことがうかがわれるが、結局は宇治市五ケ庄に設置された。石碑と説明板は、京都洛東ライオンズクラブが一九八九年十一月に建てた。山科の歴史を知る会の山本正明会長(七一)は、「近代化遺産が注目されている。疏水は有名だが、その建設を支えた史跡も知ってほしい」と話す。(京都新聞より)

・・・機会をつくって、じっくりと「琵琶湖疏水」のレンガ巡りをしたいものです。