http://www.hankyu.co.jp/station/ishibashi.html
西国街道と能勢街道の結節点「瀬川宿」として古くから栄えていた。両街道の交わるところに石の橋がかかっていたため石橋と呼ばれたとされ、その石材は池田市立石橋南小学校の前庭に展示されている。1910年3月10日に箕面有馬電気軌道(後の阪急)が開通した際、当地が宝塚方面と箕面方面の分岐点となり石橋駅が設置されたため、鉄道の結節点としても重要な役割を担うようになった。石橋駅は、阪急の歴史で最も古い駅の一つに属する。待兼山には1926年に旧制浪速高等学校、更に旧制大阪帝国大学学舎が設けられ、学生街・石橋の歴史が始まる。戦後に入るとこれらは統合されて新制大阪大学となり、学部も増加した。
現在西口に広がる商店街は戦後ヤミ市が定着したもので、宝塚本線西側に沿って商店街がある。街の西外れを区切るように、箕面川が南西流している。
★1989「地平線のある風景」作:冨長敦也
阪急石橋駅北側の通称「赤い橋」西詰めにある、台座の上で人と鳥が向き合う作品。地平線の力強さを表すために、機械を使わず、大きな石板にハンマーを振るい、ノミで形を作った。石には産地があり、その誕生の歴史を記憶している。石が生きることの意味を語りかけているようで、その声が聞きたくて、彫り続けている。
◆「池田市民文化会館」
563-0031池田市天神1-7-1/072-761-8811
アゼリアホールの愛称で、皆様に親しまれております。充実した文化・芸術活動の場として、子供からお年寄りまで、市民の皆様と共に地域文化の創造に努め優れた舞台芸術を提供しております。1072人収容のアゼリアホールをはじめ、245人収容の小ホール、会議などにご利用頂けるコンベンションルームと中・小会議室・和会議室、多目的ルームとしてのイベントスペース、充実した機材類を持つスタジオやレコーディングスタジオなどがあり、各種催し、集会、音楽練習等にご利用いただけます。皆様が集える場として、多くの方々のご来場、ご利用をお待ちいたしております。
★1990「キューブ」作:久保極
久保さんは1つの石から彫り抜いていく抽象彫刻を得意とする。心が豊かになると、作品の芸術性も高尚なものになるという。今の時代は?と考えたら、本当に豊かさって何だろうと問いたくなる。そんな現代社会の風潮からのイメージを形にしたら、無機質で空虚な作品になった」作品が少し傾いているのは、「枠のように見える作品ですけど、軽さを出すため枠にはまらないという自由さを演出したかった。
★1991「作品91-8」作:栄利秋
作品名は制作時期。作品自体が発するものを感じて、石と対話してほしい、あえてタイトルを付けなかった。球体を支える接点を少なくし、動きを出した。生きる力の強さと不安を同時に表現した。優しさや、柔らかさを出すために、球体に丸みのある溝を入れ、手で磨いて仕上げた。地球の生成を内包する石のエネルギーを外へ導き出すのが彫刻、生命力や力強さを追い求めて、制作を続けている。
【参考】戦後初の国産旅客機として活躍し、2006年退役した「YS-11オリンピア」の記念モニュメントが、大阪府池田市の市民文化会館に設置され2007年10月4日、除幕式が行われた。戦後の高度成長期の空を支えた銀翼の姿を今に残している。YS-11は、1965年に国内定期路線に就航。日本航空機製造が計182機を生産し、日本の翼として活躍したが2006年9月、国内で運航する最後の一機が鹿児島県で役目を終えた。池田市には、同機が長年運航されてきた大阪空港があるため、日本エアコミューターからプロペラブレードの寄贈を受けた。市は市民らに見てもらえるように活用を検討。彫刻家の★岩村俊秀氏の協力を得てモニュメントにした。高さ2・9メートル、重さ約1トン。黒い御影石に2枚のプロペラを取り付け、上昇する力を表現した。制作費は約130万円。除幕式では、倉田薫市長が「飛躍の象徴になれば」と期待を寄せていた。(2007/10大阪日日新聞より)
●「豊島野公園」/池田市天神1-7
http://www.azaleanet.or.jp/azalea_restaurant.html
「アゼリアホール」に隣接した公園。真ん中に広いグラウンド、遊具もあり子どもを思う存分遊ばせることができます。公園に向かってオープンになったカフェ「コルネット」があり、子どもの遊ぶ姿を横目で見ながら、ゆっくり過ごすこともできます。
★「光の属性ー5」作:北野正治
★1989「Chopstick」作:中農美枝子
鳥居の前だから、細長い形がいいと考え、箸を置いた。初の公開制作で、時間内に仕上げられるか不安だった。光に反射して、豊かな表情を生み出すように、全体に凹凸を作った。野外彫刻は、第三者が加わって完成される。人や物、季節や時間によって変わる太陽の光がいろんな表情をもたらす、そこが面白い。
◆「十二神社」
563-0035池田市豊島南1-2-9/072-762-7755
十二神社は「十二の宮」又「駒の森」と称し北今在家、西市場、北轟木(古くは下河原)三村の産土神として厚い信仰をうけていたが、明治42年、当時の国の神社制度に基づき神田の八坂神社に合祀された。然し乍ら長い歴史と伝統に基く氏神氏子の親密なる関係は極めて強く、昭和21年5月、長年に亘氏子の切なる念願が実り旧宮地に奉遷せられ改めて「十二神社」の創祀となり今日に及んでいる。御祭神は「天神七代の神々」と「地神五代の神々」、「日本書紀」に所載の天地開闢以降から神武天皇に至る「十二神」をご奉祭したものです。「駒の森」とは、西国街道に面したこの社を、参勤交代で通過する大名行列がここで馬を休めたことから『駒の森』とよばれたらしい。
【十二神社境内防空壕跡】
この地域は大阪第二飛行場(現 大阪国際空港)に近く、太平洋戦争の激化にともない空襲の可能性が強くなり、この防空壕は地域住民の避難場所として、旧北今在家町、北轟木町、西市場町の人々によって、昭和18年につくられました。防空壕の大きさは、おおよそ長さ10m、幅3mから4m、高さ2mのコンクリート製で、30人程度の人が避難出来る大規模なものでした。当時は自宅の庭や床下などにも防空壕がつくられておりましたが、今はほとんど残っておりません。あの悲惨な戦争を後世に伝えるため、戦後50周年を記念してこの「戦争の傷あと」碑を設置するものです。(※この防空壕は、危険防止のため内部は埋められております)1995年8月・池田市