・・・大日本住友製薬(旧)大阪総合センターの赤煉瓦「記念館」の保存を訴えてきましたが、残念ながら「解体」との情報がありましたので、現地視察をかねて赤煉瓦FWにでかけました。
【大和田街道(梅田街道、阪神街道)】
明治41年竣工の大坂・旧難波橋から尼崎・大物までの旧国道。大正15年淀川大橋が架かり新国道ができるまでは、大和田街道は尼崎に入り中国街道に合流し、西宮を経て山陽道として下関に達する幹線道路であり、大和田街道沿いの西淀川区内の人は、それゆえにこの旧街道を「阪神街道」とも呼んでいた。
※明治36年「大阪府誌」より「大阪市北區若松町難波橋北詰國道第二十六號路線より起り、同區堂島濱通三丁目より北に折れ出入橋西詰より西成郡鷺洲村に出で中津川を渉り歌島村に入り神崎川堤防を北進すること二百九十間にして神崎川渡船場に達し、堤防に沿ひ尼ヶ崎町の東端辰巳橋に至りて終る。延長二里十四町五十五間にして大阪と尼ヶ崎町との間に於ける諸村落交通の要路たり。」
◆「大日本住友製薬(旧)大阪総合センター」跡地
553-0001大阪市福島区海老江1-5-51/06-6454-8151
「阪神電気鉄道」は、大日本住友製薬の旧大阪総合センターを2014年12月5日に取得しました。約2.8㌶の海老江1丁目開発計画が始動、整備工事は竹中土木。計画名は「海老江1丁目開発計画整備工事」です。「労災保険関係成立票」によると工期は、2014年12月5日~2017年8月4日(予定)となっています。旧大阪総合センターは、大日本住友製薬の前身である大阪製薬(大日本製薬)が1898年に設置。100年以上の長きにわたって製薬工場として活用されていた。2003年、鈴鹿工場に機能移管後は事務所、研究施設として使用されていた。2014年9月に閉鎖。跡地27864.43m2は近隣に本社を構える阪神電気鉄道に94億5000万円で売却された。2003年4月の閉鎖まで医薬品の生産拠点でしたが、閉鎖後の2003年4月~2014年9月末までは主に事務所と研究施設として使っていました。北側の正門の近くに、工場開設当時に煮沸室として使用していた★レンガ造りの建物が「記念館」として永久保存されていました。
・・・跡形も無く「解体」されていました。このまま帰るわけにはいきませんので、
◆「大繊工業株式会社」
531-0077大阪市北区大淀北2-1-40/06-6452-1001
最近になってリサイクルとかエコロジーとかかまびすしくなって参りましたが、当社は100年以上前から糸へんの貿易によるリサイクル営業活動を続けておりますが、そのうちでもユニークな当社独自の仕入れルートを利用して、お客様に納得のいただける商品のみを納得のいく価格で提供したいと存じますので、ウエスをはじめ、こんなものまでという商品をお見せしましょう。
◆「大淀西公園」/大阪市北区大淀北2-1
・・・「大繊さん」の赤煉瓦塀ではなさそうですが、この公園あたりに工場があったのでしょう。ABC朝日放送の「美術倉庫」もこのあたりのようです。
◆「日本ペイント」
531-8511大阪市北区大淀北2-1-2/06-6455-9320
1881年(明治14年)3月14日に茂木春太、茂木重次郎の兄弟が同社の前身にあたる光明社を南品川に設立。亜鉛華より固練り塗料を開発し、当時の帝国海軍に船体塗料として納入。やがて1898年(明治31年)には日本ペイント製造株式会社に改組し、日本初の塗料工業会社として出発する。なお南品川の工場は現在に至るまで同社の東京事業所として存在し続けている。その後、1905年(明治38年)には大阪府鷺州村(現在の大阪市福島区鷺州)に工場を新設したことに伴い、経営の拠点を大阪へ移し、現在に至る。
・・・赤煉瓦の建物がありました。