待望のミュージアム(26) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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如意輪観音

仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身の一つであり、六観音の一尊に数えられる。三昧耶形は如意宝珠、紅蓮華。種子(種子字)はキリーク(hriiH)。日本では「如意輪観音菩薩」、「如意輪観世音菩薩」、「大梵深遠観音」などさまざまな呼び方があるが、重要文化財等の指定名称は「如意輪観音」となっている。また「救世菩薩」とも呼ばれる。如意とは如意宝珠(チンターマニ)、輪とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという。如意輪観音像は、原則として全て坐像または半跏像で、立像はまず見かけない。片膝を立てて座る六臂の像が多いが、これとは全く像容の異なる二臂の半跏像もある。六臂像は本の手のうちの本に、尊名の由来である如意宝珠と法輪とを持っている。日本における如意輪観音の作例のうち、大阪観心寺本尊像は六臂像の代表作である。本の手のうち、右第手は頬に当てて思惟相を示し、右第手は胸前で如意宝珠、右第手は外方に垂らして数珠を持つ。一方、左第手は掌を広げて地に触れ、左第手は未開敷蓮華、左第手は指先で法輪を支える。大阪観心寺本尊像兵庫神呪寺像奈良室生寺本堂像を「日本三如意輪」と言われている。他に西国札所の園城寺(三井寺)観音堂本尊像、京都・醍醐寺像などはいずれも観心寺像と同様の六臂像である。二臂の如意輪観音像として古来著名なものは、滋賀・石山寺の秘仏本尊像である。飛鳥の岡寺の本尊像も二臂である。 法隆寺の隣にある中宮寺の本尊像は、右脚を左膝に乗せ(半跏)、右手を頬に当てて考えるポーズを取る(思惟)、典型的な半跏思惟像である。この像は古来如意輪観音像と称されているが、造像当初の尊名は明らかでなく、弥勒菩薩像として造られた可能性が高い。なお近世、十九夜講の信仰の対象となっている。


かんの1


・・・「日本三如意輪」のひとつとして知られる神呪寺の秘仏本尊・如意輪観音坐像は毎年月18日のみの開帳、ということで行ってまいりました。

神呪寺

662-0001兵庫県西宮市甲山町25-1

http://www.ne.jp/asahi/kabutoyama/kanno-ji/

かんの2


山号は甲山。真言宗御室派別格本山。甲山大師とも呼ばれ、地元では「お大師さん」とも呼ばれている。寺号の「神呪寺」は、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、仏の真の言葉という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ。


かんの3


・・・「秘仏」なので西宮市さんの画像を拝借しました。


鎌倉時代末期の禅僧、虎関師錬の『元亨釈書』「如意尼伝」に神呪寺の開基について、記載がある。それによると、神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺にて、丹後国余佐郡香河村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では小萩という幼名が伝わり、この小萩=真名井御前をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い。『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前=如意尼は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために天長5年(828)にひそかに宮中を抜け、頂法寺=六角堂で修業をしてその後、今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現西宮神社)から廣田神社、その神奈備山、甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。天長7年(830)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831)10月18日に本堂は落慶した。同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前と称されていた。この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。空海は海人系の氏族の出身だったといわれる。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが、元亨釈書18巻にも登場するこの神とは六甲山系全体を所領とする廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫またの名瀬織津姫のことであり、水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた。鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。 戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂は江戸時代の再建。当初の寺領は淳和天皇より、150町歩の寄進があり、合わせて250町歩となったが、現在は境内地の20町歩となった。山号は「武庫山」(六甲山のこと)であったが、光玄大和尚が現在の「甲山」に変更した。神呪寺の住所は、上記の通り甲山町であるが「神呪町」が寺の南東約3km離れた、新幹線と阪急今津線の交差点付近に存在し、この寺が中世に一時的に移転したことを示す地名であるとも言われている。


かんの4


・・・観心寺・室生寺そして神呪寺、それぞれにいいですねえ。


神呪寺木造如意輪観音坐像(重要文化財平安時代)

修理の際に現在の左脚部が後補であることが判明しており、もともとは左足を垂下させる半跏の姿であったと推測されています。六臂で半跏のすがたの如意輪観音は醍醐寺仏像棟安置の像がありますが、それ以外にはほとんど知られていません。10世紀後半の作と考えられています。


かんの5


・・・お寺も素敵な場所にあり、この後「甲山」界隈を散策したいと思います。