【葵祭】
賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭で、5月15日に行われる。古くは賀茂祭、または北の祭りとも称し、平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば葵祭のことをさすほど有名であった。この祭の特徴は、平安時代以来、国家的な行事として行われてきたので、わが国の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統が残されているということである。賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の1694年(元禄7)に祭が再興されてのち、当日の内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて★葵の葉で飾るようになって、この名があるとされる。使用される葵はフタバアオイで、毎年両神社から御所に納められている。
祭の起源と沿革は、今から約1400年前の欽明天皇(在位539~571)の頃に、国内は風雨がはげしく、五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった、卜部伊吉若日子を勅使として、4月の中酉の日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭をかぶって駆競をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったという。また、819年(弘仁10)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行うという、国家的行事になった。なお、応仁の乱(1467-77)ののち、1693年(元禄6)まで約200年の間、1871年(明治4)から1883年(明治16)まで、1943年(昭和18)から1952年(昭和27)まで、中断や行列の中止があった。しかし王朝の伝統は忠実に守られてきた。
祭儀は、宮中の儀、路頭の儀、社頭の儀の三つからなるが、現在は路頭の儀と社頭の儀がおこなわれている。この祭の見どころは路頭の儀(行列)で、勅使をはじめ検非違使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘、斎王代など、平安貴族そのままの姿で列をつくり、京都御所を出発する。総勢500余名、馬36頭、牛4頭、牛車2基、輿1台の風雅な王朝行列が、遠く東山や北山の峰々を眺望しながら下鴨神社へ、さらに上賀茂神社へ向かう。その道のりは約8キロにもおよぶ。社頭の儀は、行列が下鴨・上賀茂両社に到着した際、それぞれの社頭で行われる儀式で、勅使が御祭文を奏上し御幣物を奉納する。さらに平安調を偲ばせるみやびな雰囲気のなかで、神馬の引き回し、舞人による「あずまあそび」の舞が奉納される。
【葵の葉】
葵は、古代から、菖蒲や菰などとともに、宮廷などで行われる神事の時に飾られる霊草で、京都・三大祭りの一つ『葵祭』で、行列に参加する人が身につけたり、牛車などに葵が飾られている事は有名です。ところが、そんな由緒正しきお祭りも、室町の頃になると、公家に代わって武士が力を持つようになり、応仁の乱が勃発するなど、世は戦国へと突入、一旦、祭りは休止状態に陥ります。その窮地を救ったのが徳川家、元禄七年(1694年)に祭りが再開されました。これを機会に、以前はいくつかの植物を使用していたものを、すべて葵の葉で飾るようにして、名前も『葵祭』と呼ばれるようになりました。すでに、徳川家は葵の紋を独占的に使用していましたが、最初この葵の家紋は徳川家だけの物ではなく、三つ葉葵をはじめ、葵の葉っぱを家紋にしているお家はたくさんありました。もともと、賀茂神社の氏子であった『三河三豪族』と呼ばれる松平・本多・伊奈など、すでに賀茂神社の神紋である葵を家紋として使用していました。徳川家康は、その松平の支族です。しかし、家康が将軍となり、その葵の家紋を権威の象徴・シンボルとするため、一般の使用を禁止し一門だけの独占使用権を主張して、他の家は、すべて別のデザインに変えさせられたのです。享保八年(1723年)2月25日には、葵の紋をデザインした品物の販売を禁止する法令も出しています。その結果、葵の紋は、将軍家、御三家、御三卿だけになりました。
・・・「地下鉄」を乗り継いで、「京阪三条」そして「四条河原町」へ。
◆1929「京都四條南座」/登録年月日:19961220
605-0075京都市東山区四条通大和大路西入中之町198/075-561-1155
http://www.shochiku.co.jp/play/minamiza/
南座は、元和年間(1615~1623年)京都四條河原に公許された7つの櫓の伝統を今に伝える唯一の劇場です。四条通りをはさんだ7つのうち、明治を迎えたのは2座のみで、明治26年に北側芝居も廃座となり南座だけが歌舞伎発祥の現在地に残りました。明治39年(1906)白井松次郎、大谷竹次郎兄弟の松竹合名社が経営に当たります。そして大正2年に改築。さらに昭和4年、由緒ある櫓を備えた桃山風破風造りの豪華な劇場を竣工させ、以来激動の昭和期を通し京阪の代表劇場として多様な演目を取り上げました。取り分け京の年中行事となった歳末の吉例顔見世興行は戦中も一度も絶えることなく続けられました。平成3年(1991)、松竹株式会社会長永山武臣により、京都の街の景観にとけこんだ外観はそのままに内部を全面改修し、最新設備の近代劇場として改築され、同年11月新装開場記念吉例顔見世興行によって新時代の幕を開きました。
※「うどん博物館」は倒産(破産)しました。
◆1924「旧村井銀行祇園支店」/登録年月日:19980902
605-0075京都市東山区四条通大和大路東入祇園町南側573-5/
イタリアンレストラン「カーラ・ラガッツァ(Cara Ragazza)」075-532-5100
たばこ王として知られた村井家のお抱え建築家的存在であった吉武長一による一連の村井銀行支店シリーズのひとつ。アメリカ仕込みの古典主義建築の作風がよく示されており、パラペットのバラストレードなどの細部もよく残されている。
◆1913「祇園甲部歌舞練場」1936「弥栄会館」/登録年月日:20010828
605-0074京都市東山区祇園町南側570-2/075-541-3391
http://www.miyako-odori.jp/kaburenjyo/
東側本館、南側別館、北側の弥栄会館に囲まれた位置に建ち、演舞会時には一等玄関・一等待合に使用されてきた。入母屋造の主体部に唐破風の車寄を接続した形態で、主体部は45畳と30畳の板間に分かれていた。入口に相応しい堂々とした外観を備えている。
・・・そして、最終の目的地へ。