紡績・赤煉瓦建築(7) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・府道40号岸和田牛滝山貝塚線)を走っていて、思わず車を停めました。とても立派な「赤レンガ」塀です。さっそく、調べてみました。


◆「株式会社イノウエ

596-0103岸和田市稲葉町225072-479-1200

http://www2.odn.ne.jp/~kk-inoue/

完全に規格化された量産体制により、価格は安く、ごく短い工期で完成します。スピーディな施工、最も経済的なハウスとして多方面でご利用いただいております。組立ハウス本体だけなら更地に50坪の仮設倉庫を1日で仕上ます。(例外あり)又、解体作業も1日で。中古ハウスの販売もしており、農小屋や倉庫に経済的で最適。シャッター取付けもできます。(和泉ハウスグループのリース部門である)主な取扱製品(1)フラットルーフ型プレハブ(2)切妻タイププレハブ(3)ユニットハウス


きし1


・・・もとは、紡績工場だったのではないかと、勝手に想像しています。地図を見ると、「半田紡績」も近くにありました。

◆「半田紡績株式会社

596-0103岸和田市稲葉町1350072-479-0331

戦後、当社の基になった製品は、先染化合繊、天然繊維混紡糸の製造でありました。先染、布染色にはない、次のような重要な利点を先染混紡糸は持っており、市場は特色と価値を評価してくれました。①化合繊、天然繊維などの素材を適正に染色し、これらの素材を適切な割合で混紡することにより、発色堅牢性に優れた混紡色糸の生産が可能であること。②各種素材の染色原綿を混ぜ合わせて紡績することにより、深いメランジ色の混紡糸の生産ができること。③同じ色相混紡糸の生産にあたって大ロット(10トン以上)の生産も可能であること。以上のような特色のある混紡糸の生産を戦後直ちに研究開発し、以降、先染化合繊、天然繊維混紡糸の研究・開発・生産にあたり、技術課題の克服、技術問題の解決などさまざまなノウハウと技術の蓄積に努めてきました。今後とも先染化合繊紡績として、この分野の研究開発の深耕を図りたいと思っています。主な取扱製品(1)先染化合繊混紡糸及び織物、ニット製品(2)先染綿化合繊混紡糸及び織物、ニット製品(3)先染毛化合繊混紡糸及び織物、ニット製品

藤本紀男(2013年4月1日現在)71歳

紡績会社代表、岸和田商工会議所紡績工業部会常議員、岸和田城音楽祭実行委員会委員長、財団法人岸和田市文化財団理事


きし2


・・・ところが、平成20年まで操業され、その後「貸工場」になっていました。

旧紡績工場跡万坪の貸工場

【住所】大阪府岸和田市稲場町1350

【物件】旧紡績工場跡(平成20年迄操業稼働)

建築主】半田紡績株式会社(昭和19年創業)

【概要】

敷地:約20,000坪

建物:約8,000坪鉄筋コンクリート工場、倉庫、事務所、食堂・厨房

その他:社宅24室 10坪/室(ファミリー用)、男子寮15室 5坪/室(シングル用)、女子寮49室 12坪/室(4人用)風呂・シャワー室完備。グランド。

環境:土地は広くゆったりとして静かな環境で、桜の古木が数十本あり、藤の花など季節の花に囲まれ、夏には蛍が飛び交う最高の環境です。


・・・少年野球にグランドを提供されていたようです。

★少年野球「岸和田ボーイズヤンチャーズ

2014年11月、約40年間の長きに渡り、半田紡績株式会社様のご厚意で「(通称)半田紡グランド」を専用グランドとして活動しておりましたが、そのグランドが事業用地として決定され、今週よりグランドが工事現場と化してしまいました。我々現役世代も、あまりにも突然の出来事で途方に暮れる間もなく、部室の移転や倉庫の整理に追われ今日を迎えました。選手達は、週末からの高石大会、バファローズカップを控え工事の妨げにならないように練習に励みました。数々の想い出がたくさん詰まった半田紡グランドが無くなる事は非常に淋しいですが、チームが消滅した訳ではありません。これからのNEW岸和田ボーイズ/ヤンチャーズを引き続きのご支援、ご協力をよろしくお願いいたします。

・・・そして、現在は「物流会社」になっています。


◆株式会社「松菱」

550-0005大阪市西区西本町2-1-3006-6532-5021

http://www.matsubishi-net.co.jp/index.html

株式会社松菱は、昭和20年に大阪にて創立以来、総合物流業者としてお客様からの幅広いご要望に対応しております。物流のプロがお客様のお手伝いをいたします。関西に複数拠点を有し、確実な入出庫管理、商品管理の行き届いた物流加工、スピーディーな全国配送手配を実現、お客様のベストパートナーをめざして、さまざまなニーズに的確にお応えし、新しい物流のありかたを提案します。

平成26年(2014)「岸和田D.C.」開設

596-0103岸和田市稲葉町1350半田紡績株式会社内072-489-2101

(Distribution Center)ディストリビューションセンター、保管型の倉庫または物流センターを意味する。一方、通過型の倉庫または物流センターは、TC(トランスファーセンター)という。


きし3


★1「スパ・リゾートリバティ

596-0052岸和田市並松町25-17072-423-1126

http://www.liberty-1126.com/

万葉倶楽部株式会社が運営しております『スパ・リゾートリバティ』は、昭和63年月のオープン以来24年の長きにわたりお客様に格別のご愛顧を頂戴してまいりましたが、誠に勝手ながら平成24年月末をもちまして★3「閉館させていただくこととなりました。


きし5


地元住民再建岸和田レンガ」語り部の塀2008年11月20日

http://www.city.kishiwada.osaka.jp/site/kishiwadai/wadai20081112.html

明治・大正期に近代的な街並みを形作った赤レンガの国内有数の工場が、かつて岸和田市にあった。工場の跡地には長さ33mレンガ塀が残され、歴史を物語っていた。ところが2007年7月、レンガ塀は市道拡幅のために撤去された。歴史遺産の消滅を惜しんだ地元住民らが、このレンガ塀のがれきを譲り受け、跡地の一角に3メートルのレンガ塀を再建した。レンガ工場は、同市並松町付近にあった「岸和田煉瓦」。「歴史の語り部を次世代に残したい」として、所有者の開発業者から、レンガ塀を譲り受けた郷土史学習グループのメンバーらは、市の敷地を借りてレンガ塀のがれきを置き、2007年8月から、セメントからレンガを一つずつ外す作業を月2回地道に続けてきた。登下校中にその作業を見かけた市立土生中学校の男子生徒2人が「何してんの?」と声をかけたのがきっかけで、同中の生徒約10人も、生徒会活動の一環で作業に参加した。バラバラにしたレンガを、元のレンガ塀があった場所から200mほど離れた駐車場の一角に積み上げた。工場跡地は現在、入浴施設★1「スパ・リゾートリバティ」になっており、同社から駐車場の南端部分の提供を受けた。出来上がったレンガ塀は長さ3メートル、高さ1・2メートル。将来的に案内板を立てる計画もあるという。2008年11月11日に復元作業に参加した前生徒会長の谷川博輝君(14)は「岸和田にもレンガ工場があったという文化を伝えるために、自分たちが手伝えることがあればと思った」と話した。岸和田煉瓦は1872年創業。地元産の粘土を使ってレンガを大量に生産した。国の重要文化財の旧山口県庁舎や、登録有形文化財の同志社女子大ジェームズ館に使われている。創業者の山岡尹方(がキリスト教徒だったことから、十字架をあしらった「×」のマークを社章にしていた。岸和田煉瓦に関連して、その歴史を紹介する展示会と講演会が、同市岸城町の★2「自泉会館である。


きし4


★2【1932「自泉会館岸和田文化事業協会)」登録年月日:19970507

596-0073岸和田市岸城町5-10岸和田市立自泉会館内072-437-3801

http://www2.sensyu.ne.jp/fontaine/sisetu/sisetu.htm

岸和田紡績(岸紡、現・ユニチカの前身の1つ)創設者の寺田甚与茂に贈られた慰労金を基にして社長を継いだ長男の寺田甚吉が1932年に建設した寺田財閥の倶楽部であった。岸紡や寺田家の関連建築を多く手がけた渡辺節の設計によるもので、近世スパニッシュ様式の建築である。岸和田紡績は1941年に大日本紡績(現・ユニチカ)と合併した。寺田甚吉は1942年に岸和田市長となり、翌年の退任時に当建物を市に寄贈した。ジェーン台風により市役所が甚大な被害を受けた際には、市議会議事堂としても利用され、後に岸和田商工会議所に貸与されたこともあった。1982年に市制60年を記念して修復され、以後は文化施設として利用されている。1968年には2階が一部増築されている。登録有形文化財