・・・有名な「京のカエル大阪のカエル」という逸話があります。その「蛙像」が、「大山崎ふるさとセンター(大山崎歴史資料館)」にあるというので行ってきました。
◆【大山崎歴史資料館】◆
618-0071京都府乙訓郡大山崎町大山崎竜光3
大山崎ふるさとセンター2階/075-952-6288
http://www.town.oyamazaki.kyoto.jp/contents_detail.php?co=cat&frmId=6992&frmCd=30-20-0-0-0
【大山崎】
それは天王山が淀川へ最もせり出した場所を意味します。その自然の関門ともいうべき地形から、日本の東と西を結ぶ交通の要衝として古代以来発展してきました。当歴史資料館の常設展では、これまで歩んできた歴史的特色を踏まえ、7つのコーナーを設けて町の歩みを紹介しています。まず、エントランスルームでは、年表、文化財地図パネル等で町の歴史概観ができます。そして竹林のプロムナードをぬけると、そこには大山崎の名水にちなむ井戸ビジョンがあり、映像で各時代の特色ある文化・歴史を紹介し、次のコーナーへの興味を高めます。展示室は5つのコーナーに分かれ、古代コーナー、中世コーナー、山崎合戦と待庵・利休のコーナー、近世コーナーという構成になっています。各コーナーとも実物展示のほか、解説ビデオやイラスト、模型や複製などを用いて、楽しみながら歴史学習ができるように心がけた展示となっています。天王山、淀川とともに生きる大山崎町の歴史を存分にお楽しみください。
【天王山】
http://www.town.oyamazaki.kyoto.jp/contents_detail.php?co=kak&frmId=2877
といえば「天下分け目の大決戦」の代名詞となっている。しかし、実際の合戦は、天王山の東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いであった。天正10年6月13日(新暦では1582年7月12日)申ノ刻(午後4時半頃)、天王山の東側に展開した明智勢が、羽柴(豊臣)秀吉方の先手、中川清秀、高山右近、羽柴秀長らの諸隊に攻めかかった。天王山と淀川の間の狭い道を出て来る羽柴方を各個撃破する作戦である。だが、戦いは明智光秀の思い通りには進まなかった。天王山の東側には油座で知られる山崎の町があり、その東側には広い沼地が広がっていた。この地形が双方の行動を制約、斎藤利三、並河掃部、松田太郎左衛門らの精鋭を連ねた明智方の猛攻でも、羽柴方の先手を崩すことができなかった。その間に、淀川沿いでは羽柴方の池田恒興、加藤光泰、木村隼人らの諸隊が進攻、円明寺川の東側にも上陸した。川沿いの明智方は手薄で、ここを守る伊勢与三郎、御牧三左衛門、諏訪飛騨守らはたちまち苦戦に陥った。羽柴秀吉が本陣の大部隊と共に天王山の東に出たのは、合戦がはじまって半刻(約1時間)ほど経った頃だ。天下分け目の決戦は、日暮れた後に終わった。破れた明智光秀は勝龍寺城に逃げ込んだ。その頃、秀吉は天王山に登って戦場を見下ろしたかも知れない。闇に包まれた戦場跡には、負傷者を援ける松明が無数に揺れ動いていたことだろう。
★「天王山のカエル(京のカエル大阪のカエル)」
江戸時代の「柴田鳩翁」という心学者が書いた「鳩翁道話」の中に、天王山にまつわる「京の蛙と大阪の蛙」という話があります。
是で面白い話がござります。むかし京にすむ蛙が、兼て大阪を見物せんと望で居りましたが、此春おもひ立て、難波名所見物と出かけ、のさ\/と這ひまはり、西の岡向うの明神から、西街道を山崎へ出、天王山へ登りかゝりました。又大阪にも都見物せんと思立つた蛙が有つて、是も西街道瀬川・あくた川・高槻・山崎と出かけ、天王山へ登りかゝり、山の巓で兩方が出合ひました。ナニガ互に仲間同志なれば、めん\/の志をはなし、扨兩方がいふ樣は、「此やうに苦しい目をして漸やう\/とまだ中程じや。是から互に京・大阪へゆきなば、足も腰もたまるまい。爰が名に負ふ天王山の巓、京も大阪も一面に見わたす所じや。ナント互に足つまだて、脊のびして見物したら、足のいたさを助からう。」と、相互に相談きはめて、兩方がたちあがり、足つま立てて向うをきつと見わたして、京の蛙が申しまするは、「音に聞えた難波名所も、見れば京にかはりはない。術ない目をして行ゆかうより、是からすぐに歸らう。」といふ。大阪の蛙も目をぱち\/して、嘲笑うていふやう、「花の都と音には聞けど、大阪に少しも違ちがはぬ。さらば我等も歸るべし。」と、双方互に色代(会釈)して、又のさ\/と這うて歸りました。是が、面白いたとへでござりますれど、つひは御合點がまゐりにくからう。蛙はむかうを見わたした心なれど、目の玉が背中についてあるゆゑ、ヤツパリもとの古さとを見たのじや。何んぼほどにらんで居ても、目の附所の違うてあるには氣が附かぬ。うろたへた蛙の話し、よう聞いて下さりませ。
【柴田鳩翁】(1783~1839)
天明3年(1783年)、父・奈良物屋吉兵衛(号は玄証)の子として京都で生まれる。通称は謙蔵。名は享。字は陽方。号は鳩翁のほかに眉山、維鳩庵など。文化7年(1810)28歳の頃、京都市中で『赤穂記』を種本に軍書講談を披露したところ好評を得たため、「眉山」と号して講談を本業とするようになった。以後も講談の技術向上のため詩文・経書を読み習ったが、そのうち石田梅岩の『都鄙問答』を読んだことで心学(石門心学)に感動を受け、京都の心学者薩埵徳軒(手島堵庵の時習舎で教え、のち楽行舎を創始)の下で心学修行を積んだ。その間、心学の理解を深め、文政4年(1821)39歳にして手島堵庵創始の明倫舎から堵庵断書(石門における免許状にあたる)を授けられた。さらに修行を積むべく黄檗宗の法蔵寺に参禅。文政8年(1825)頃、禅と心学の共通点を悟り、講談稼業を正式に畳んで丹後田辺に下って、当地の求心舎・立敬舎を中心に50余日にわたって道話を講じて回った。柴田鳩翁は道話の神様といわれ、鳩翁道話の正編は1835年(天保6)、続編36年、続々編38年刊。ベストセラーになりました。
■ふるさと今昔物語
http://outdoor.geocities.jp/ohhawksno1/konjyaku.htm
★「天王山の蛙」
http://outdoor.geocities.jp/ohhawksno1/kaeru1.html
大山崎に伝わる寓話を★京都造形芸術大の学生が紙芝居にしてくれました。
【参考】5月1日(金)から5月31日(日)の期間で小企画展「『蘭花譜』原画作成の頃」を開催しています。「蘭花譜」は現アサヒビール大山崎山荘を建築した加賀正太郎と後藤兼吉が作成した版画集で、自ら栽培した蘭1140種のうち、優良種だけを計104枚の植物画にまとめ、昭和21年(1946)に編集・刊行した蘭の画集です。84枚が浮世絵の技法を受け継ぐ木版画であり、残りの20枚は油絵の印刷と白黒写真で構成されています。その「蘭花譜」の原画作成当時の大山崎の交通事情や、観光の雰囲気を★吉田初三郎の絵地図や観光絵はがきなどで時代をふり返ります。
【吉田初三郎】(1884~1955)
大正から昭和にかけて全国の観光地のパノラマ絵図を作った絵師・吉田初三郎が描いた、戦後の大山崎町と隣接する大阪府島本町の観光名所を紹介した鳥瞰図の原画が見つかり、京都府大山崎町大山崎の町歴史資料館で展示されている。「府の枠を超えて観光誘致をしようとしており、貴重な資料だ」とする。同資料館によると、大阪市の古書店で発見して購入した。島本町が作成したパンフレットに収められた「島本町・大山崎村鳥瞰図」。絹に顔料で描かれており、縦39・5センチ、横108センチ。完成は1957年で、吉田の死後に弟子が完成させたとみられる。当時の街並みや天王山、昭和の実業家加賀正太郎が建てた大山崎山荘などを独特のデフォルメしたタッチで紹介している。京都や大阪まで描かれ、京都では主君織田信長を討った明智光秀が敗北した山崎合戦を意識してか、本能寺が記載されている。 吉田は戦前にもほぼ同じ構図の鳥瞰図を描いており、島本町の町立歴史文化資料館で展示されている。大山崎町歴史資料館の学芸員福島克彦さん(47)は「戦まもなくの街の様子や当時の地域に対する認識が分かる。両町の歴史的な深いつながりも示している」と話す。