梅田アート(18) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・またまた新たなパブリックアートを発見しました。梅田アート(17)で報告した河合隆三さんの彫刻のすぐ近くです。

2003「梅田DTタワー」/設計・施工竹中工務店

530-0001大阪市北区梅田1-10-1

2003年3月6日、通称「ダイヤモンド地区」と呼ばれる場所に完成した。世界初となるハイブリッド免震システム(中間層免震)や免震エレベータが当ビルには採用されていて、比較的地震に強いのが特徴である。竹中工務店のグループ企業であるTAKリアルティ(旧竹中不動産)が所有・管理している。計画当初は、上から見たら菱形、横から見たら下層部が斜めになっているダイヤモンドのような外観をしていた。敷地面積の約55%の公開空地として用いられており、隣接するビルとの間の空間が十分に確保されている。テナントとしてNTTドコモ関西支社が入居しており、地下1階にはNTTドコモのショールーム「モバイルメディアラボ梅田+ONE」がある。

【参考】「ダイヤモンド地区」

大阪駅前の南、阪神梅田駅(地下駅)のすぐ南に位置し、高層ビルや大型建造物が立ち並んでいる。四つ橋筋(大阪市道南北線)・御堂筋(国道176号)・曽根崎通(国道2号)に囲まれた五角形の区画がダイヤモンドに似ていることと、大阪で一番地価が高かったことからダイヤモンド地区と呼ばれるようになった。


そね1


1994GendrdⅠ・GendrdⅡ」/作:Barry Flanagan

【バリー・フラナガン】(1941

イギリスの彫刻家、版画家。ウェールズのプレスタチンに生まれる。1964年から66年までセント・マーチン美術学校に学ぶ。彫刻の素材自体のもつ表現力に強い関心を抱いており、60年代なかばには、砂、ヘシアン(粗麻布)、ロープなどによる作品を制作。68年にはブロンズを用い始め、73年からは大理石による彫刻も制作する。有機的なフォルムによってユーモラスな味わいをみせる作品が多い。80年代に入り「野ウサギ」のシリーズを手がけ、82年にはベネチア・ビエンナーレのイギリス代表となる。


そね2


■大阪駅前第4ビル/大阪市北区梅田1-11-4

1970第1ビルが完成。

1976第2ビルが完成。

1979第3ビルが完成(同年10月20日開業)。

1981第4ビルが完成(同年10月12日開業)。


そね3


第4ビル完成10周年を記念して199111月に世界地図をデザインした時計塔が設置されています。

1990年代まではゲームセンターが非常に多く存在したが、そのほとんどが閉店しており、現在では第ビルや第ビルに各店舗、第ビルと第ビルに各店舗があるのみとなっている。また、都心の一等地であることに加え、ビル内に多数のテナントが入居していることから集客が見込めるため、2000年代以降はコンビニや飲食店が相次いで開店している。コンビニについては、第1ビルにはローソン(地下階)が、第ビルにはファミリーマート(地上階)とセブン-イレブン(地下階)が、第ビルにはセブンイレブン(地下1階)が、第ビルにはローソン(地下階・地下階)とファミリーマート(地下階)が、それぞれ営業中である(更に第ビルと通じているディアモール大阪にも、ファミリーマートが開店している)。なお、第ビル階にもかつて個人経営のコンビニがあったが、それらの開店によって閉店した。飲食店はゲームセンター跡地にタリーズコーヒーなどの喫茶店が見られるようになっている。2010年代以降では第ビルに吉野家やサイゼリヤも進出している。2012年月、特に築年数が古く老朽化している第ビル・第ビルを解体・撤去して緑地化する計画が関西経済連合会により検討されていることが判明したが、運営業者側はこれを否定した。

・・・「御堂筋」東側に、有名だった「足立宝石店」が見えています。

◆足立宝石店

530-0057大阪市北区曽根崎2-6-2

エンゲージリングが有名だった宝石専門店。2011年5月10日に閉店しています。建物東側は曽根崎お初天神通りに接しています。


そね4


阪本漢法製薬

530-0057大阪市北区曽根崎2-7-406-6131-1200

http://sakampow.com/index.html

創業:大正8年(1919)設立:昭和39年(1964)8月伝統を継承し、和漢薬の未来を創造します1800年という悠久の歴史を持つ漢方。その伝統と今なお、多くの人に愛用されつづけている力を理解するとともに、新たに近代科学の見地から解明して合理性や確実性を加味しています。私たち、阪本漢法製薬は、「温・故・創・新」の精神で漢方をベースとした現代にふさわしい医薬品を創製してきました。自然の生薬を使用し、永い臨床に裏打ちされた漢方の可能性をどのように生かすか。つねに自問自答を繰り返しながら、和漢薬の近代化を推進。“健康という充実した生活の基礎である幸せ”をより多くの人に提供できるよう、より良い製品開発・製品づくりに励んでいます。

曾根崎

曾根崎の「ソネ」(埆)は、石が多くやせてしまった土地を意味し、元々曾根崎洲と呼ばれる淀川河口の砂洲で、荒廃地であった。平安時代から鎌倉時代にかけて行われていた「難波八十島祭」の旧跡とも言われ、祭りに加わっていた須牟地曾根神社は当地にあったとされている。現在の住所表示では、広義の梅田のうち、御堂筋の東側・国道1号の北側・扇町通の南側の地域にあたり、1丁目から2丁目まである。また、北新地の一画を成す「曾根崎新地」が南西に隣接する。一帯は繁華街として栄え、『曽根崎心中』の舞台になった露天神社(通称:お初天神)は当地にある。第二次世界大戦前の曾根崎は、御茶屋などが並び、三味線や小唄が聞こえる京都の祇園のような風情のある雰囲気を持っていた。


そね5


◆曽根崎お初天神通り商店街

http://www.ohatendori.com/

由来は、やはり露天神社(お初天神)と共にあります。終戦後直後からお初天神の境内に飲食店が集まり始め、30店舗ほどのお初天神食道街として栄えました。当時あったお店、例えばしゅうまいの阿み彦や小料理の扇屋は現在でも近くに場所を移して昔の味を守りながら営業中です。お初天神の本殿は戦災で消失したが、商店街の西側の建物は奇蹟的にも何軒か焼け残った。当時の様子を以前の商店街会長高橋さんは「延焼を逃れるため、皆でバケツリレーをやったもんや」と当時を振り返ります。焼け残った商店街には、今ではオリジナルお好み焼で有名なゆかりや元祖豚平焼きの本とん平など、今でも名を残すお店ができはじめました。昭和30年頃からは低いビルも建ち、商店街としての形が整ったのです。昭和40年代は梅田界隈にも映画館などが建つようになりました。同時に商店街の入り口にお笑いの殿堂うめだグランド花月もオープン(当初は洋画封切映画館として昭和21年オープン)し、商店街は神社への参拝客や笑いを求める人々で多いに賑わいます。この光景は現在でも変わることはありません。昭和40年代中頃には大阪万博や南北に走る新御堂筋、駅前には大阪駅前ビルが完成し、ますます梅田界隈に人々が多く集まりはじめました。現在の商店街は、入り口付近にあるうめだ花月シアターへのお客やお初神社への参拝客以外に、梅田界隈で働くビジネスマンやOLの食事処として昼夜賑わっています。今では大阪の北・梅田界隈で最も親しみやすい商店街としてその歴史と共に根づいております。ちなみに商店街の名前は当初「すずらん通り」でしたが、その後「曽根崎センター街」となり、後に現在の「曽根崎お初天神通り商店街」となりました。やはりお初天神と商店街は切っても切れない深い仲なのです。