・・・北浜にある「淀屋橋スクエア」の南側1F「KENWEST」前に設置されているモニュメント2009「環kan」の作者がわからなかったのです。作品プレートにサインは書かれているのですが、あまりに達筆で読み取れなかったのです。あれこれ探しているうちに、店舗の設計事務所「CPO」を探し当てました。そこのデザイナーさんの仕事なのかなとも思いましたが、あきらめずに調査を進めていましたら、とうとう「松原賢」さんの作品であることを付きとめました、やれやれ。
◆1980「ダイニングバーKENWEST」/淀屋橋スクエア1F/06-6226-0088
http://kenwest.sakura.ne.jp/index.html
※株式会社シーピーオー設計/DESIGNER:甲斐正人2009
http://www.cpoplan.co.jp/index.html
◆2009「淀屋橋スクエア」/施工:大林組
541-0041大阪市中央区北浜2-6-18
高さ:18階79.7m/延床面積:24,346.20㎡/建築主:神鋼不動産など
「大阪神鋼ビル」「新光証券ビル」跡地に完成したハイグレードオフィス。テナントは神鋼商事大阪本社をはじめとする神戸製鋼グループ各社、田辺三菱製薬本社、東洋証券大阪支店など神鋼商事神戸製鋼系商社。神鋼グループ製品の取り扱いが大半。連結売上高1兆343億円(2009)田辺三菱製薬2007年、ともに在阪企業であった田辺製薬と三菱ウェルファーマが合併して誕生した製薬会社。循環器系に強い。滋養強壮剤アスパラドリンクが有名。連結売上高4147億円(2009)旧本社ビル跡地に新本社を建設★再移転の予定。
★神鋼商事大阪本社/06-6206-7010
造形作家・松原賢さんのモニュメント「環」。神戸製鋼グループ・神鋼不動産大阪支店ビルが、2009年に新しく「淀屋橋スクエア」18階建てのビルに生まれ変わりました。記念のモニュメントとして、作品「環」が制作されました。東洋の時空間をテーマにしたこの作品は、レリーフとして何点か制作し、予てより念願であった240π×30�の立体作品になりました。表面は従来の鉄仕上げで、側面をステンレスの鏡面仕上げにし、太陽の黄道に沿って設置することにより朝日、夕日、月の満ち欠けと、道行く人たちを映し込み天と地の時間と空間を内在していきます。「淀屋橋スクエア」は土佐堀通りと三休橋筋との交差点に位置し「環」は緒方洪庵由来の適塾側に設置致しました。
【松原賢】
1948富山県上市町に生まれる。1973独立美術(東京都美術館)、1976井上三綱に師事、1977第一美術展(東京都美術館)第一美術賞。1979日仏現代美術展(グランパレ国立美術館・フランス)神奈川県美術展(神奈川県民ホールギャラリー)県議会議長賞。1987上野の森美術館絵画大賞展(上野の森美術館)特別優秀賞。その他、全国各地で個展・グループ展。
【参考】「色川法律事務所」淀屋橋スクエア12F/06-6203-7112
昭和2年4月に開設された大阪で最も古い法律事務所のひとつです。 80余年にわたる伝統と信頼を護りつつ、 高度の専門性とコンプライアンス精神を備えた弁護士集団として、多数の企業・団体等に良質のリーガルサービスを提供しています。
1927年(昭和2)色川幸太郎が大阪弁護士会入会。 日本農民組合顧問弁護士として西日本各地の事件を担当。1940年(昭和15年)~1945年(昭和20年)応召・法務将校。1947年(昭和22)色川幸太郎が、大阪市東区北浜2丁目の旧鴻池組所有の建物に色川法律事務所を構える。
★2015「田辺三菱製薬新本社ビル」/設計施工:大林組
大阪市中央区道修町3-2-10
http://www.mt-pharma.co.jp/index.php
高さ:14階/延床面積:16,998.41㎡/建築主:田辺三菱製薬
田辺三菱製薬が開発した地上14階建て、高さ70mの新本社ビル。道修町の旧社屋跡地に2015年2月6日に竣工しました。★淀屋橋スクエア(中央区北浜)から本社を移転するほか、2階に道修町や同社の歴史を紹介する史料館★「田辺三菱製薬史料館」を開設。14階に屋上緑化スペースとカフェが設置される。災害対策として免震構造、非常用電源設備を採用した。立地するのは道修町通りと三休橋筋の交差点角地で、向かいには塩野義製薬本社ビルが立っている。田辺三菱製薬(田辺製薬)が薬業の町として知られる道修町に進出したのは1855年。近隣に本社を構える武田薬品工業、塩野義製薬とともに「道修町御三家」と呼ばれていた時代もあった。2009年、北浜へ本社移転したことで、道修町のブランド力低下が一時話題となった。
※田辺三菱製薬
1678年創業の製薬メーカー。2007年に田辺製薬と三菱ウェルファーマが合併して現在の体制となった。 抗体製剤のレミケードを筆頭に運動失調改善のセレジスト、対高血圧のメインテートなど、主に医療用医薬品を製造販売している。三菱ケミカルホールディングス傘下。連結売上高は4126億円(2014.3)と国内5位クラス。
※田辺三菱製薬本社ビル竣工に関するお知らせ(2015年2月6日発表)
田辺三菱製薬株式会社(本社:大阪市、代表取締役社長:三津家 正之)は、当社発足時の本社所在地である大阪市中央区道修町において、本社ビルを竣工いたしましたのでお知らせいたします。当社各部門およびグループ会社は、本年3月上旬から順次移転を開始し、本年4月1日には全ての業務を本社ビルにてスタートする予定です。本社ビル周辺地域は、船場を始めとする上方文化の中心地として栄え、道修町は全国の薬種流通の中心地、日本の薬業のルーツとして江戸時代からの歴史が伝えられています。当社はこの地より、社会やコミュニティとの共生を推進し、医薬品の創製を通じて世界の人々の健康に貢献してまいります。
<本社ビルの主な特長>総合設計制度を採用した地上14階、地下2階の免震構造(地下1階柱頭免震)。非常用電源設備、2回線受電などの災害に備えた設備を採用。外装には、コンパクトダブルスキン・カーテンウォールと基壇部を中心にテラコッタ・タイルを採用し、歴史と未来を感じさせる外観とエントランスおよび環境配慮型オフィスを実現。2階には★「田辺三菱製薬史料館」、執務室各階にリフレッシュコーナー、13階に社員食堂、14階に屋上緑化とカフェテラスを設置。公開空地は、道修町や三休橋筋の地域コミュニティとの共生・貢献を視野に入れ、薬草タイルを施した植栽枡を設置する(大阪市まちなみ修景補助制度を活用)など、まちなみづくりに努める。環境性能はCASBEE(Comprehensive Assessment System for Built Environment Efficiency:建築環境総合性能評価システム)「Aクラス」を取得予定。
・・・「田辺三菱製薬史料館」を訪問する楽しみがふえました。
◆大日本住友製薬
541-0045大阪市中央区道修町2-6-8/06-6203-5321
http://www.ds-pharma.co.jp/index.html
1897(明治30)に大阪・道修町の有力薬業家21名により、大阪製薬株式会社が設立される。1898年、大阪・海老江に製薬工場(旧大阪工場、現在の大阪総合センター)を設置。東京にあった半官半民の大日本製薬会社を吸収合併し、社名を大日本製薬株式会社に改称。
1984年(昭和59)住友化学工業株式会社(現 住友化学株式会社)の医薬事業の研究、開発、製造部門と、住友化学の医薬品の販売総代理店であった稲畑産業株式会社の医薬販売部門を継承して、1984年2月に住友製薬株式会社が設立され、同年10月1日に営業を開始。2005年10月1日大日本住友製薬誕生。
★2014年3月25日(火)大阪本社ビル1階に創業時の史料等の展示スペースを開設しました。当社は、1897年(明治30年)5月に大阪・道修町に設立し、100年を超える医薬品の研究開発、製造、販売の歴史を刻んできました。江戸時代からくすりの町として知られる道修町とともに築いてきた100年を超える当社のあゆみを一般の方々に広く知っていただくとともに、多くの方にくすりの町・道修町への関心と理解を深めていただきたいと考えています。創業の精神、長井長義博士の製薬事業発展への貢献、純正医薬品の製造と供給、革新的な医薬品の創出に挑戦する当社の現在の姿など、道修町と当社のあゆみを模型や展示パネル、動画上映、写真映写などにより、わかりやすく紹介します。
長井長義博士は、エフェドリン(気管支拡張剤)の発見者。当社(当時の大日本製薬)の技術顧問を務めるなど、化学や薬学に関する産業の発展に貢献しました。また、東京薬学会(現、日本薬学会)の初代会頭を務め、日本の薬学研究の礎を築き上げる上で非常に大きな貢献を果たしました。展示物の、医薬品の製造に使用していた蒸留缶および濾過器は、2014年3月、公益社団法人日本化学会より化学遺産認定を受けています。
◆小城製薬
541-0045大阪市中央区道修町2-5-8/06-6231-1803
http://www.koshiroseiyaku.co.jp/
1915年、創業者小城忠治、薬種問屋尾崎弥吉商店に奉公。1930年、薬種問屋尾崎弥吉商店より30歳で別家独立。薬種貿易商小城忠治商店を大阪市東区石町1丁目20番地に創業。弊社は創業以来、生薬の栽培・買付・販売・輸入販売を行っており、その優れた経験をもとに植物 抽出製造の道を開拓してきました。以来、医薬品分野において1000品目以上のバルク製品を供給 してきました。医薬品製造で培った技術をもとに、素材のもつ有効性を活かした安全かつ衛生的な エキス類の供給を行っております。
【道修町】町名の由来は、このあたりに「道修寺」という寺院があったからとする説や、江戸時代初期に北山道修(きたやま・どうしゅう)という薬学者がいたことにちなむとする説がある。なお、江戸時代中頃までは道修谷と呼ばれていた。
・・・機会があれば、ぜひ「道修町」を歩いてみてください。




