初志初詣(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・ここまで来た最大の目的は「久米の仙人」に会いたかったからです。



せん1


・・・仙人のことを聞いたのは中学生頃だったように思いますが、以来、忘れることのできない話なのです。


せん2


【参考1】徒然草第八段

世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。

匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。九米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。

【参考2】今昔物語集巻十一「久米仙人始造久米寺語第二十四」

今昔、大和国、吉野ノ郡、竜門寺ト云寺有り。寺ニ二ノ人籠リ居テ仙ノ法ヲ行ヒケリ。其仙人ノ名ヲバ、一人ヲアヅミト云フ、一人ヲバ久米ト云フ。然ルニ、アヅミハ前ニ行ヒ得テ、既ニ仙ニ成テ、飛テ空ニ昇ニケリ。後ニ、久米モ既ニ仙ニ成テ、空ニ昇テ飛テ渡ル間、吉野河ノ辺ニ、若キ女衣ヲ洗テ立テリ。衣ヲ洗フトテ、女ノ(月巾)脛マデ衣ヲ掻上タルニ、(月巾)ノ白カリケルヲ見テ、久米心穢レテ、其女ノ前ニ落ヌ。


せん3


久米仙人

欽明天皇の御代、金剛山麓葛城の里に生まれたとされています。吉野山麓龍門ヶ獄で神通飛行術を取得し、空中を自由に飛べるようになりました。その後、百数十年もの間、久米寺に住んでいたといわれています。聖武天皇が東大寺に大仏殿を建立する際、勅命を受けた久米仙人は神変不思議の仙術を使い、国々にある大木大石の数々を三日三夜の内に大仏殿境内まで飛ばして集めて見せました。その甲斐あって大仏殿の建立は速やかに成就したと伝えられています。久米仙人の働きに深く感銘した聖武天皇は、免田30町歩を与えたということです。この伝説は、「今昔物語」にも見られます。久米仙人のユーモラスな伝説では、神通力を得て空中を飛びまわっていた仙人は、ある日、川で美しい女性が洗濯しているところに遭遇し、その女性のふくらはぎに目がくらみ神通力を失い墜落したという話も残っています。

・・・いろいろ絵も調べましたが、「月岡雪鼎」が一番気に入りました。

月岡雪鼎(1726~1787

近江国蒲生郡日野大谷村(現在の滋賀県蒲生郡日野町大谷)生まれ。大谷には「月岡山」という小高い丘があり、雪鼎はこの山の名称から「月岡」と号したと伝承がある。現在、この月岡山には雪鼎を顕彰する石碑が建てられている。

最初、同郷の京狩野派の絵師・高田敬輔門下で、本格的な画法を学んでいたが、西川祐信の影響で美人画を描く。★仁和寺に申し出、明和2年(1765年)6月に法橋、安永7年(1778年)3月に法眼に推免された。作画期は宝暦3年頃から没年の天明6年に到っており、肉筆浮世絵の他、版本の挿絵にも筆をとった。肉筆画の大部分は、美人図で、賦彩の美しい画品を具えた作品が数多く見られる。豊艶な美人の肢体に、肉色の線を使用することでも、特色がある。雪鼎の描く女性は、京都のものとは異なる独特な写実性のある作品が多い。また、★春画の名手としても知られる。天明の大火の時、焼け跡の中になぜか残っていた蔵があった。訝しんだ人々がその蔵の中に入ってみると、その持ち主も見覚えのない雪鼎の春画があったという。この逸話が広まり雪鼎の春画は火除になると評判が広がり、値が十倍にもなったという。また、貴族からも好みに応じて描き、その絵の値段は三十金・五十金にもなったという。1775年、大坂浪華塩町の★心斎橋筋に移住。享年77。長男月岡雪斎、次男月岡雪渓も浮世絵師。門人に蔀関月、岡田玉山、墨江武禅、森周峰など。門人と推定される絵師に田中巨川斎がいる。また一説に、★月岡芳年は雪鼎の長男、月岡雪斎の画系をひいているといわれる。

・・・なんと「心斎橋」に住んでおられたのですね。つながりのある「月岡芳年」もいいよなあ、いずれ紹介したいものです。


せん4


【参考】塚穴古墳

羽曳野市はびきの3丁目に所在する大型の方墳である。見晴らしの良い羽曳野丘陵の上に築かれたこの古墳は、聖徳太子の実弟・来目皇子を7世紀の初めに埋葬した墓とされている。そのため、現在は来目皇子埴生崗上墓(くめのみこはにうおかのうえのはか)として宮内庁がが管理している。

・・・「久米寺」と「羽曳野市」は、「来目皇子」つながりなんですよね。


せん5


久米御縣神社奈良県橿原市久米町786

創建の由緒は不詳である。「御県神社」という神社は大和国内に7社あり、いずれも皇室の御料地である御県(みあがた)に鎮座していたものである。『日本書紀』垂仁天皇27年に「是歳、来目邑に屯倉を興す」という記述があり、創建もその頃とみられる。延喜式神名帳では「大和国高市郡 久米御縣神社三座」と記載され、小社に列格している。ただし、延喜式祈年祝詞には他の6つの御県神社が記載されているが、当社は含まれていない。久米氏の衰退とともに当社も衰微したが、隣接して久米寺が創建され、当社はその鎮守社として再建された。江戸時代中期頃からは「天満宮」「天神社」と呼ばれるようになった。現在も、「天満宮」「天神社」と書かれた燈籠が数多く残る。明治初年の神仏分離により久米寺から分離され、明治中期に久米御縣神社に改称した。