梅田(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「梅田」の夜の顔と言えば当然「キタ新地」。

http://kgnet.jp/

大阪キタを代表する飲食店街で、東京の銀座と並んで日本を代表する高級飲食店街でもある。大阪駅前のダイヤモンド地区に南接して東西に細長く広がっている。ラウンジ、クラブ、料亭などを中心とした料飲店が集中している地域で、風俗店やパチンコ店は皆無である。おおむね御堂筋四つ橋筋間において、北から「永楽町通」「新地本通」「堂島上通」沿いに展開する。通りがやや曲がっているのは、かつて存在した曽根崎川に沿って街が形成されたためで、新地本通堂島上通間の街区が川跡にあたる。なお、この川跡を境にして南北方向の街路にズレが生じているため、移動にビル間の路地やビルの中の通路を使うことも多い。単に「新地」と呼ばれることもあり、1982年にミナミの難波新地が難波に改称されて以降、大阪市で新地と付く町名は曽根崎新地だけとなっている。



しんち1


1685年の河村瑞賢による曽根崎川改修以降、堂島は新地開発が行われ、大坂城下の北に位置することから「北の遊里」と呼ばれた。1697年に米市場が北浜から堂島へ移転されたことに伴い、1708年に曽根崎川の北岸に拓かれた曾根崎新地へと遊里のほとんどが移ったが、堂島新地の町名は1872年まで残った。近松門左衛門作の『心中天網島』に登場する小春は、曾根崎新地の遊女である。以降、曾根崎新地は「北の遊里」「北の色里」「北の新地」と呼ばれ、米商らの遊興場所として繁栄した。また、諸藩の蔵屋敷が立ち並ぶ中之島から近いこともあって、大坂では珍しい武家の来客も多く、もっぱら町衆で賑ったミナミの南地五花街とは当時から性格を異にする街であった。1909年に発生した「北の大火(天満焼け)」でほぼ全焼したが、瓦礫で曽根崎川を埋め立てて復興し、現在の姿となった。北新地の北側は梅田であるが、北新地を含め梅田と呼ぶことがある。南側は堂島浜で大手企業の高層ビルが堂島川に向かって立ち並ぶ。


文化銘板

http://www.kita-shinchi.org/new/bunkameiban01.html

北新地は、江戸中期、河村瑞軒による淀川の改修によって開発された堂島新地(1688)と曽根崎新地(1708)をルーツとしています。米相場の中心地であった堂島に隣接し、商用の武家や町人を顧客に繁栄するなかから、近松門左衛門の浄瑠璃「曽根崎心中」の作品の舞台として描かれるなど、多くの町人文化を育まれました。文化銘板「わが北新地」は、北新地の先人たちが歩んできた自由で進取の精神を受け継ぎ、北新地三百年の固有の文化遺産を再発見し、内外に広くアピールします。先駆的な街づくりの第一歩としての位置付けにふさわしい発想と最先端の技術で制作しています。代表的な文化遺産を17点に集約し、チタンパネル上に図版と説明文で表現、内、10点を新地本通りの遊歩道に設置しています。


しんち2


国産ビール発祥の地大阪市北区堂島1丁目

プレートの説明によると、明治5年(1872年)に、大阪商人の渋谷庄三郎が、堂島に醸造所を設け、日本人で初めての本格的にビールの製造・販売を開始したそうだ。犬のマークが付いたラベルの「渋谷ビール」という銘柄で、年間約32~45キロリットル製造され、外国人に販売していたという。しかし、「横浜で外国人によってビールの醸造が行われていた」という明治3年(1870年)、米国人のウィリアム・コープランドによって横浜・山手にビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」が設立され、日本で初めてビールの醸造・販売が開始された。外国人の手による日本初だが、実は麒麟麦酒(キリンビール)がこの流れを汲んでおり、世間的に「横浜が日本のビール発祥の地」と定着してしまった。小規模なものなら江戸時代にも日本でビールが造られていた。文化9年(1812年)に、長崎の出島でオランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフによる“自家醸造”で、これが「日本で初めて醸造されたビール」。嘉永6年(1853年)には、江戸で蘭学者の川本幸民が蘭書を参考に醸造し、こちらは化学実験的要素が強かったようだが、「日本人による初めて醸造されたビール」になる。つまり、横浜は「日本で初めて産業的にビールがつくられた地」で、大阪は「日本人によって初めて産業的にビールがつくられた地」ということ。現在、堂島北新地、生産地ではなく消費の地となっている。ビール発祥の地にちなんで、「堂島麦酒醸造所」によって「北新地ビール」が醸造されています。

http://www.asahi-net.or.jp/~iv9y-ymmt/beers/osaka/kitas.html


【参考】壽酒造、地ビール堂島麦酒醸造所オープン

清酒「国乃長」醸造元・壽酒造(株)(大阪府高槻市、0726・96・0003)では、1995年7月大阪初の地ビール「大阪国乃長ビール」を製造、大いに気を吐いたが直営料飲店をはじめ、周辺デパートなど地域と密着した対応で好調な推移となっている。すっかり自信を得て地ビール醸造機器も自社で開発既に地ビール造りのノウハウとともに地ビール工場建設も引き受けている。そして、意欲はますますおう盛で「大阪」の繁華街のど真中「北新地」へ、1996年8月1日から「堂島麦酒醸造所」をオープン


しんち3


【参考】JR東西線 (JR西日本)の「北新地駅」。計画時の仮称は「桜橋駅」だった。桜橋は曽根崎川(埋立)に架かっていた橋で、撤去後は現在の四つ橋筋を走っていた大阪市電南北線の停留所名に継承され、現在も交差点名や大阪駅の四つ橋筋側の出口名に使用されている。しかし、桜橋交差点から梅田新道交差点(御堂筋)の手前にかけて、ちょうど北新地の北縁に沿うようにホームが位置しており、また、地元北新地の商店主などからの要望もあって北新地駅に決定した。

堂島薬師堂大阪市北区堂島1-6

http://www.avanza.co.jp/index.html

堂島が開拓されるはるか以前、推古天皇元年(593年)の聖徳太子による四天王寺創建時、淀川の八十島の一島を選んで薬師堂を建立し、「なにわの守護」とされたという由緒あるお堂です。堂島という地名も「薬師堂のある島」からそう呼ばれるようになったとも言われています堂島が拓けてからは「堂島のお大師さん」と呼ばれ、人々の信仰も篤かったようです。元は先年まで毎日新聞社があった所にありましたが、明治44年にその地に芝居小屋「堂島座」が建ち、お堂はすぐ傍の路地内(今の堂島薬師堂ビル南側)に移されました。その際、それに関係した人が次々に原因不明の病気で亡くなり、たたりといわれました。その後大正11年に毎日新聞社が堂島座を買収して社屋を建て、先年その毎日新聞社も移転し、平成11年春、その跡に「堂島アバンザ」が完成しました。そしてその際、薬師堂も超モダンな建物となって、約九十年ぶりに元の場に戻りました。


しんち4


【参考】曽根崎『お初天神』露天神社)境内にある標柱(しめばしら)には、第二次世界大戦のときグラマン戦闘機による銃撃の跡が残っております。刻まれている「宣揚文」は、主祭神少彦名大神御神徳が書かれたもので「医薬禁厭を定め、人威恩頼を蒙る」意味は、医学・薬学・禁厭(祈祷)を定めて、人は威(みな)その恩頼(おんらい)をうけられるです。

【参考】「新阪急ビル」~「大阪駅前第4ビル」への地下通路梅田1-12-39)に、大阪城「千貫やぐら」を模した石垣があります。

阪急阪神ホールディングス株式会社2013年3月27日付けのプレスリリースでお知らせしたとおり、阪神電気鉄道株式会社と阪急電鉄株式会社では、梅田1丁目1番地計画(阪神百貨店梅田本店の入居する大阪神ビルディング及び新阪急ビルの建替計画)を推進すべく、行政及び関係先との協議を進めているところですが、今般、本計画に係る工事施行計画を決定し、工事に着手します。・・・現在、「新阪急ビル」は工事のため閉鎖中です。


・・・こまかい情報をあれこれ紹介するのは、新しいことを進めていくために「古い」こと・ものをどう残していくかが問われるからです。そのアイデアこそが、先駆者・開発者の真の「情熱」ではないでしょうか。


しんち5


梅田ダイビル530-0001大阪市北区梅田3-3-10

竣工:2000年(平成12年)5月ダイビルが所有するオフィスビルで、国鉄南コンテナヤードの跡地の西梅田再開発地に建設され、オオサカガーデンシティを構成する。低層部の吹きぬけ構造が特徴で、2001年に第12回大阪施設緑化賞(みどりの景観賞)特別賞を隣接する安田生命大阪ビル(現 明治安田生命大阪梅田ビル)とともに受賞、同年の松井源吾賞、2003年の第23回大阪都市景観建築賞(大阪まちなみ賞)奨励賞を単独で受賞した。KBセーレンの本社やキヤノンマーケティングジャパンの大阪支店、ショールーム「キヤノンプラザ梅田」などがテナントとして入居している。


・・・さて、「西梅田」開発の現状を視察してみましょう。