★PL野球部、新入生の受け入れ停止・監督が見つからず
高校野球の甲子園大会で春夏計7度の優勝を誇るPL学園(大阪)が、来年度は硬式野球部の新入部員を受け入れないことが2014年10月11日、分かった。すでに、保護者に文書で通達している。近年は部員間のいじめや暴力などの不祥事があり、昨年4月から事実上の監督不在が続いていた。10月9日付の文書は、小野久彦・学校法人ピーエル学園理事長、正井一真・PL学園中・高校長の連名によるもの。監督適任者が見つからず、「このまま新たに(中略)新規部員を受け入れることは、本校の教育責任を十分に果たすことができず」、入学を希望する中学3年生の受け入れを停止するなどと書かれている。また、メディアなどの問い合わせには「コメントを差し控えます」としている。学校関係者は「この措置が永久的に続くわけではない」としているが、将来的な部の存続も不透明になった。PL学園は2001年に部員間の暴力事件で対外試合禁止処分を受け、夏の選手権大会に参加できなかった。昨年も部員同士の暴力が発覚し、夏の大会出場の道が断たれた。当時の監督が退任してからは、野球経験のない正井校長が監督を務めている。
★保護者への文面抜粋
このたび、学校法人ピーエル学園理事会は平成27年度の高等学校硬式野球部新規部員の受け入れを停止することにいたしましたので、その経緯についてご説明させていただきます。既にご存じの通り、硬式野球部は、監督の適任者選任を目指してきたものの得るに至らず昨年度から中学校高等学校校長が監督を務め、コーチ陣の指導のもとにクラブ活動を続けてまいりました。野球というスポーツを通じて、PL学園でしかできない信仰指導、人間教育ができるように努めてまいりましたが、適任者不在のまま、十分な指導ができていないことは慚愧に堪えません。本校のクラブ活動は学校教育の一環として行っており、硬式野球部も例外ではありません。このまま新たに硬式野球部の新規部員を受け入れることは、本校の教育責任を十分に果たすことができず、PL学園の教育指針に反すると判断いたしました。なお、硬式野球部に在籍している在校生につきましては、クラブ活動を継続しつつ、教員が一丸となって、教育指導に携わらせていただきます。
・・・複雑な思いで、「藤井寺球場跡」を久しぶりに訪れました。
◆近鉄藤井寺球場跡/藤井寺市春日丘3-1-1
1928年5月25日オープン、2005年1月31日閉場。収容人数:32,000人(内野席22000人・外野席10000人)、グラウンド:中堅-120m両翼-91m、内外野人工芝(閉場時)
1928年に開業。開業当時は甲子園球場を凌ぐ敷地面積、収容人数を誇り、主にアマチュア野球で使用されていたが、1949年に近鉄は新球団を結成する事を発表、スタンドやグラウンドが改修され、近鉄パールズの本拠地となった。しかし近鉄バファローズと名前を変えた頃にはナイター設備がないことから主催試合の多くは日生球場での開催がメインとなり、日本シリーズも大阪スタヂアムで行われるなど名目上の本拠地に過ぎず、オーナー会議で問題とされる事にもなった。その後大規模な改修工事計画を発表するも地域住民の反対にあい頓挫しかけるが、1983年外野最上段に防音壁を設備する事、鳴り物の応援は禁止する事を条件に念願のナイター設備が認められるも、大阪ドームの誕生に伴い準本拠地に降格、練習場及び二軍の本拠地球場となる。しかし2004年の球界再編により近鉄バファローズが消滅した事から2005年1月をもって閉鎖され、2006年8月に解体された。現在この地には四天王寺学園の小学校のほか、球場跡地南側には大規模マンションが建設されている。
★藤井寺球場跡地に記念モニュメントを設置します
平成21年2月23日/藤井寺市、四天王寺学園、近畿日本鉄道株式会社
藤井寺球場は昭和3年に開場し、昭和25年からは「近鉄バファローズ」の前身である「近鉄パールズ」の本拠地球場となり、以来、平成17年1月の閉鎖までの間、多くのファンに親しまれるとともに、高校野球の予選会場としての役割も果たしてきました。同球場閉鎖後、跡地は学校法人四天王寺学園が取得し、本年4月から四天王寺学園小学校が開校する運びとなりましたが、市民に親しまれた球場の記憶を次の世代に伝え、スポーツを通じた青少年育成を願って、藤井寺市、学校法人四天王寺学園、近畿日本鉄道株式会社の三者で記念モニュメントを設置することといたしました。このモニュメントは、近畿日本鉄道株式会社が製作し、藤井寺市に寄贈したうえ、四天王寺学園小学校の敷地内に設置されます。
〇「白球の夢」素材:ブロンズ製/作者:玉野勢三氏/サイズ:ブロンズ像高さ110cm・台座(大理石) 高さ110cm・幅65cm/前面銘板文字(台座)近鉄バファローズ本拠地 藤井寺球場跡1928-2005/側面銘板文字(台座)藤井寺球場は1928 年(昭和3 年)に開場、1950年(昭和25 年)に「近鉄パールズ」、後に「近鉄バファローズ」の本拠地球場として2005年(平成17 年)1 月までの長きにわたり、たくさんのファンと感動をともにし、また、高校野球の予選会場として多くの青少年の夢を育んできました。
※玉野勢三プロフィール
1954年大阪市に生まれる、1973年京都市日吉丘高校美術工芸コース彫刻科卒業、1976年土の会結成、1980年中部読売展・中京テレビ放送賞受賞、1982年愛知県立芸術大学大学院研修科卒、1989年全関西美術展(読売新聞社賞)受賞(90年、92年)、1990年第4回日本現代具象彫刻展(千葉県立美術館)(第5回:92年、第6回:94年)、1997年倉敷まちかど彫刻展入選、1998年「おしくらまんじゅう」忠岡町舎前設置、「紀伊国屋文左衛門像」湯浅町設置、「与謝野晶子像」堺市設置、その他全国で個展を開催
★四天王寺学園小学校・四天王寺大学藤井寺駅前キャンパス
http://www.takamatsu.co.jp/projects/details.php?id=104
設計:高松伸建築設計事務所/施工:鹿島建設/竣工:2009年2月
タイルとコンクリートの外壁をキューブ状に配置してカラフル且つリズミカルに楽しく演出しています。
★四天王寺学園中学校/竣工:2014
http://www.takamatsu.co.jp/projects/details.php?id=135
※高松伸(1948~)
昭和23年8月5日生まれ。昭和55年高松伸建築設計事務所をひらく。ポストモダニズムの旗手のひとりとして活躍。平成元年キリン・プラザ・大阪で建築学会賞。8年植田正治写真美術館で芸術選奨。9年京大教授。作品はほかに先斗町のお茶屋,ARK,国立劇場おきなわなど。島根県出身。京大卒。
・・・突然ですが、西宮市「鳴尾」です。武庫川女子大学を訪問したついでに、「鳴尾浜」までやってきました。
◆鳴尾球場跡
元々西宮市にあった香櫨園グラウンドが老朽化のため閉鎖され、それに代るグラウンドを同市内の鳴尾競馬場に設けることになり、1916年に阪神競馬クラブから経営権を移譲して競馬用のトラックの内部に陸上競技場(1周800m、直線400m)やプール、テニス場、そして野球場を併設した総合スタジアムとしてリニューアルオープンを果たした。全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)がこの前年(1915年)に大阪府豊中村(現・豊中市)の豊中グラウンドで開催されたが、主催者の大阪朝日新聞は大会の長期化による選手の参加費用がかかること(当時は参加チーム各学校が遠征費を自費払いしていた)を考慮に入れて、会場の複数化を検討するように提案。その白羽の矢が立ったのがこの鳴尾球場だった。1917年にグラウンドを2面設置することでこの大会を開催することが決定。グラウンドは競馬場の内側にある関係から常設のスタンドを取り付けられないため第1グラウンドの内野に木造の仮設席を取り付けた。しかし大会を観戦するファンが年々増加する傾向にあり、とうとう第2グラウンドの一部にも設置され、試合によってはその仮設席を客席に観客を乗せたままという状態で大会役員が座席を担いで移動させるという光景まで見られたという。また、グラウンドの土質が非常に悪く雨が降るとしばらく使えなかったといわれている。こうした事情から、大阪朝日新聞はこれに代る本格的な野球場を建設するように提案。また阪神電鉄も近隣の武庫川の支流、枝川と申川(さるがわ)の埋立地(こちらも当時は武庫郡鳴尾村)に新球場を建設する計画を立てていたことから意見が一致。1924年に甲子園大運動場(現・阪神甲子園球場)が完成し、鳴尾球場は廃止となった。
その後も敷地は競馬場として使用されていたが、戦中に川西航空機の飛行場となり、戦後には進駐軍に接収された。接収解除後は日本住宅公団(現在の都市再生機構)の手により浜甲子園団地として開発され、現在に至っている。浜辺の隣接地には鳴尾浜公園という公園が整備されている。球場の正確な跡地ではないが、1993年に「全国中等学校優勝野球大会開催の地」という記念碑が建てられた。なお隣は浜甲子園運動公園(旧・厚生年金スポーツセンター)となっており、一部が軟式専用の野球場となっている。後にできた阪神タイガースの2軍の本拠地である阪神鳴尾浜球場は1980年代に造成された埋立地の鳴尾浜にあり、2kmほど離れた別の場所にある。
・・・ここは、「甲子園球場」の先祖にあたる場所なんですねえ。